穴山信君、伊賀に死す
意が決してしまえばやはり一世の傑物である家康の行動は早い。
二日の巳の刻(午前十時)にはすでに行動を開始していた。
「何があっても三河へ帰るのだ!」
「おーっ」
家康の鬨の声とも言うべき叫びに答えるが如く三十数名とも言われる徳川の勇士たちは声を上げ、伊勢、そして三河にたどり着くべく歩を進めた。
「しかし、穴山殿はなぜ我らと共に行かなかったのか」
「さあな。大方、我々を囮にでもするおつもりなのだろう」
だがこの中に、武田の旧臣であったが徳川家に内通し、信長から所領を安堵されていた穴山信君の姿はなかった。十数人の供を連れ、すでに出発していたのだ。
無論、家康に提案し受諾された結果なのだが。
「穴山殿ご自身の才覚と命運に託すしかあるまい。我らも同じことだがな」
裏切り者であり余所者である信君に、酒井忠次たち徳川の将の反応は冷たかった。
無事に帰ればよし、死ねばそれまで。
お互いに口では「まとめて襲われて共に落命するよりは片方だけでも生き残ったほうがよい」と言っていたのだが。
「地獄の沙汰も金次第と言う物で」
山中の道なき道を進む家康の元に、側用人とも言うべき本多正信が喜色を含ませながら声をかけた。
「食料は大丈夫か」
「はい。これも茶屋殿のおかげですな」
逃亡にあたり一番の問題となるのは無論光秀と光秀の恩賞に預からんとする落ち武者狩りや山賊などだが、その次に問題なのは食料である。
食料がなくなってしまえば、逃げる事もできないのだ。かと言って、近隣の百姓から強引に収奪するような事はできない。仮にやれば、その瞬間光秀に居場所を教えるも同然であるし、仮に三河へ逃げ帰っても覆しがたい悪評が残る。
ましてや今は六月であり、秋の収穫期まで時間がなく自然百姓の蓄えも少ない。無論家康もそれなりの路銀は持っていたが、収穫期までの残り少ない穀物を農民がやすやすと渡してくれる訳はない。
だからこそ、茶屋四郎次郎は蓄えていた財を使い、市価の数倍の値段で近隣の百姓から米を買い上げたのである。
「このまま行けば明後日には伊勢にたどり着けるとの事でございます」
「明後日か……」
正信は明るく楽観的な見通しを述べ続けるが、家康はそれでも不安を隠しきれなかった。
部下たちの前ではああやって自信満々に宣言したものの、本音を言うとやっぱり信長の死がこたえている。
「のう弥八郎」
「何か」
「正直な事を言うと、わしは右府殿の後を追わずに済むのか自信がないのだ……」
家康が安心して泣き言を言えるのは本多正信だけであった。
「大丈夫でございます。日向守の事をお考えになってください」
「光秀の事をか?」
家康は急に光秀の事を出されて、戸惑う様に鸚鵡返しの返答をした。
「日向守にしてみれば、我々の事も重要ですが、他に重要な事が山とございます。まず、羽柴・柴田・滝川・丹羽と言った織田の重臣に備えねばならず、そしてそれらを喰い止める為に毛利・上杉・北条・長宗我部と言った織田に圧迫されていた大名に本能寺の変を伝え協力を得なければならず、更には朝廷からも協力を取り付けなければならぬ上に、織田家の象徴とも言うべき安土城を放置する事もできますまい。
仮に我々が無事三河に帰ったとして、兵を整え日向守の元へ迫るには一月近くはかかります。日向守にとって我々は二の次、三の次の存在です」
要するに本腰を入れて掛かってくることはないのだから安心してください、と言う言葉の意味を理解し、家康は胸を撫で下ろした。
「そうだったな、それを見落としていた」
「我らはみな、命を捨ててもお屋形様をお守りいたします。それゆえ山賊連中など物の数ではございません。ご安心を。いざとなれば茶屋殿の金の力もございます」
「弥八郎、やはりお主を呼び戻したのは正解だったようだな」
「勿体なきお言葉にございます。三河へ帰り着いた暁には、是非大久保殿に厚き礼を」
正信の言葉は家康の不安を解きほぐし、自然家康の足どりを軽くさせた。
家康が独立直後に悩まされ続けた三河一向一揆の終焉に際し、その中心人物であった本多正信は家康から流浪を命じられ、姉川の戦いの直前に徳川の重臣・大久保忠世の手によって徳川への復帰を許されたのである。
いわゆる「帰り新参」であり、戦にも不得手であった正信を武勇の士たちは軽く見ていたが、家康は諸国を見聞した正信の知恵を愛し、側近として間近に置き続けていた。
一方、その大久保忠世はここにはいない。弟の忠佐と息子の忠隣は家康と共にいたが、忠世は三河にて留守を預かっていたのである。
酒井忠次・石川数正と言う徳川の二大家老を堺に同行させても大丈夫なほど、信頼されていた人物だった。。
「日が沈んできましたな」
そして家康一行が駒を進めている内に太陽が中天に沈み始め、じわりと辺りが暗くなり始めた。
「警戒を怠るな!山賊連中はこういう時を狙ってくるのだ!」
猛将・本多平八郎忠勝は愛槍・蜻蛉切を構えながら声を張った。並の山賊連中百人ぐらいなら、一人で取りひしげそうなぐらいの迫力が全身から滲み出ていた。
「ご安心ください。今の平八郎殿の声をお聞きになりましたか?我々は徳川のお家のためには命は惜しみませぬ」
「ありがたい……」
正信の力強い言葉に、家康は安堵の溜息をついていた。
※※※※※※※※※
一方、家康と別れた穴山信君はどうしていたのだろうか。
「三河(家康)殿はご無事であろうか……」
徳川の人間が思っているよりは真面目に家康の事を慮っていた信君であったが、内心ではどこか楽観があった。
光秀にとって厄介なのは自分より家康のはず。どうせ自分の首は家康の首より安いのだから、山賊や落ち武者狩りと言った連中は家康を狙ってくるだろうと思っていた。
更に言えば、家康の下には本多忠勝や榊原康政と言った猛将がいるのだ。
(結局我々にはさほどの数は来ず、家康殿の所に来た連中は猛将たちの手にかかって果てる……その結果両方とも生き残れるだろう。それに)
信君も正信と同じように、自分たちを光秀にとって二の次、三の次の存在だと考えていた。織田の重臣を押さえ込み、織田に圧迫されていた諸侯を取り込み、朝廷の協力を取り付け、更には安土も押さえなくてはいけない。
たかだか五十人の落ち武者である徳川家康と自分に、光秀が構う余裕はないと判断していたのだ。
無論、信君とて戦国武将であるから、警戒を怠っていたわけではない。
方向をしっかり確認し、従者に辺りを警戒させ、食料も確保していた。
「日が落ちたな……今日はここまでだ」
「松明をつけましょうか?」
「いや、まだよい。真っ暗闇になってからでも遅くはない」
山賊が襲撃するにはいささか中途半端な時間帯だと感じた信君は、あえて松明をつけさせなかった。
「警戒はしておいてくれ。亥の刻(午後十時ごろ)になったら松明をつけてくれ」
従者もまた、信君の言葉に従い松明をつけなかった。
やがて、戌の刻(午後八時ごろ)になると、信君らが潜んでいた草むらの付近で、ガサリという音が鳴り響いた。
そして、音につられるようにその方を向いた信君一行の目に、はっきりと山賊らしき男が映った。
「やはりいたか!」
「ひいいっ、気付かれちまった!逃げろ!」
泡を喰って逃げ出した山賊らしき男を、信君の従者は追いかけて斬り捨てた。
「やはり来たか……。身元を調べろ」
信君の命により従者は山賊の身包みを調べたが、これと言って際立つ物はなかった。
「何だ、ただの盗人か。その様子だと盗賊団の下っ端にも見えんな」
「ではここで野営を」
「ああ、続ける」
もし盗賊団ならば下っ端の一人が帰ってこないとなれば下っ端の消えた所に親分以下大軍が押し寄せる可能性もあるので場所を変えなければ危ういが、そうでない手前、無駄に動けばかえって目に留まる危険性が大と信君は考えたのである。
やがて亥の刻となった。信君は従者の一人に松明を付けさせ、残りの従者共々眠りに付いていた。
「ん……」
しかしそれからまもなく、従者は仰天する事態に遭遇する事となった。
「と、殿ーーーっ!!」
「何じゃ、山賊か!」
「い、いえ……あ、あれを!」
従者の叫び声に跳ね起きた信君もまた、愕然とした。
五十、いや百を越える尋常ではない数の松明が迫ってくるのだ。三十数人の家康一行であるはずがない。松明の数からして五百は下らない人数のはずだ。
「ええい、後のことはもう知らん!とにかく逃げろ!」
信君は自棄になって叫び、自らは愛馬にまたがって逃げようとした。
だが五百を超える謎の軍隊は十数名の信君一行をあっという間に囲み、一人、また一人と首を奪って行った。
信君は必死で囲みを抜けようと脇差を振るっていたが、突然間の抜けた声を上げて動けなくなり、そしてその隙に攻撃を受けて落馬してしまった。
「誰か、家康殿に、きき…」
落馬して地に叩きつけられ我に返った信君はそこまで言った所で首を刎ねられた。信君の言葉を聞いた一人の従者も逃げ出す途中で謎の軍隊の刃にかかり、ここに穴山信君一行は全滅したのである。
「よくやってくれた」
謎の軍隊の大将と思しき人物は、信君の首実検を行い、本人である事を確認した。
「首を取った人物を記録しておけ。後で恩賞を取らせる」
その大将は妙に整然とした言葉遣いで、かつ丁重に功績を記録している。
「さあ、次は家康。逃がすわけには行かない!進軍!」
「おーっ!」
謎の五百の軍隊は整然と駆け出して行った、山賊などとは格が違うと言わんばかりに。
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