徳川家康、伊賀に死す!!

 六月四日丑の下刻(午前三時ごろ)、緊張のせいかまだ明るくならぬうちに家康は目を覚ました。




「ぐっすり眠りたかったのだがそうもいかんか」

「いえいえ、三刻(六時間)は寝ておられました。十分でございましょう」


 家康につられるように目を覚ました本多正信の言葉に、家康は胸を撫で下ろした。


「とにかく、今日一日が危険でございます」

「そうであるな」




 今日は加太峠を越え、伊勢までたどり着かねばならない。



 この加太峠というのが古くから山賊の棲家と称されるほどの険しい山であり、難所中の難所であった。だがそこを越えればもはや伊勢である。


「百里を行く者は九十里を半ばとす、でございます」

「わかっている」


 寅の刻(午前四時ごろ)、家康一行は逗留していた小川城を出発した。


 四日の寅の刻なので、月明かりはあってなきが如きと言う程度であり、松明が火を灯していた。



「今日を乗り切れば三河へ帰ることができるのだ」

「何があってもお屋形様を三河へ帰すのだ!」


 家康はそう言って配下の勇将たちを励まし、酒井忠次以下の猛将たちも、それに力強く答えた。


 だが一人だけ不安な顔をしている人物がいたことに、家康は気が付いていなかった。


 服部半蔵正成である。勇将であると共に伊賀忍の棟梁でもあり、徳川の陰働きを一手に担ってきた人物であり、此度の伊賀越えにおいては地元と言うべき伊賀の住民の心をつかむ存在でもあったのである。



(穴山殿の下に派遣した忍びからの連絡がないのはなぜであろうか……穴山殿に万が一の事があったにせよ忍びまで討たれるとは考えにくいが……)



 半蔵が穴山信君の下につけていた忍びは一人だけであったが、他にも地元の農民や地侍の中に家康に心を通じる者がおり、忍びに万が一の事があってもその誰かが信君の動向を知らせてくるはずであった。

 それが梨の礫なのだ。


(とにかく今はお館様をお守りするのみ。遅かれ早かれ連絡も来るであろう)


 徳川に忠実な武士である半蔵もまた、信君に対しあまりいい感情を持っていなかった。逃げ切っていればそれでよし、討たれていればそれまでと言うのが偽らざる本音であったのだ。




 やがて一行は伊賀徳永寺にたどりつき、半刻(一時間)ほど休憩を取り、正午ごろにいよいよ最大の難関と言うべき加太峠越えに挑むことになったのである。


 しかし延々四刻(八時間)の時が経っても、半蔵の下に信君の動向を知らせる使者はついに来なかった。


「お屋形様……」

「半蔵か?」

「穴山殿の下に放った忍びから、未だに連絡がございません」


 堪え切れなくなった半蔵は、加太峠に向かう直前の家康に己が不安をぶつけた。


「便りのないのはよき便り、であろう」

「だとよろしいのですが」




 だが家康の反応は冷淡な物であった。確かに無事ならば、連絡をする必要もない。基本的に生真面目な家康もまた家臣たちと同様に、信君の裏切り行為をよく思っていなかったのである。


「いよいよ加太峠だ!ここさえ越えれば伊勢は目前だ!」


 家康は半蔵の言葉を聞き流し、最大の難関である加太峠への挑戦を敢行した。






 やがて未の刻(午後二時ごろ)であったろうか。


 加太峠を進む家康の元に、起きるだろうと思っていたが起きてほしくない事が起こってしまった、と言う報告が届いた。


「山賊が現われました!」

「数は?」

「十五、六名です!」

「やむをえん、一人残らず討ち取れ!」


 家康はそう叫んだ。


 当然であろう、一人でも逃がせば別の山賊団や地侍らに家康がいるという報告を行う可能性があり、そうなれば更に事態は悪化する。


 幸い数はこちらのほぼ半分、掃討は難しくないだろうという判断になるのも当然だった。


「拙者にお任せあれ!」


 そう叫びながら山賊たちの前に立ちはだかったのは、名槍蜻蛉斬を構えた徳川一の豪傑、本多平八郎忠勝であった。平装ではあったがその武勇たるやすさまじく、たった一振りで八人の山賊を物言わぬ死体にしてしまった。


「逃がさん!」


 山賊連中は一瞬で腰を抜かし、脱兎の如く逃げ去ろうとした。忠勝は家康の一人残らず討ち取れと言う命に背中を押されるように、山賊たちを追いかけた。


「よし、平八郎が山賊たちを蹴散らしている間に駒を進める!」



 家康はここが勝負とばかりに、馬を進めた。


 忠勝を置き捨てていくことになるが、忠勝なればすぐに戻ってきてくれる、その間に三河へ駒を進めるこそ忠勝の望みのはず。その思いが、家康を前進という選択肢に駆り立てていた。


 しかし、十五分、三十分と峠を進んでも、忠勝は戻って来ない。


 まさか忠勝が。家康の心に不安が襲い掛かった。


「半蔵、平八郎を捜して来てくれ!」


 視界の悪い山道でこっちが先に進んでしまったのだ。

 我々を見失って山の中をさ迷っていても一向におかしくない。


 いや、そうとしか考えられない。家康の心の焦燥がその結論を出すのに、時間は要らなかった。

「御意」


 半蔵はそう言い残して山の奥へ入って行った。


 そうなるともう、家康たちは忠勝と半蔵を待つべく動きを止めるしかなかった。


「わしとしたことが焦燥に駆られるとは……」


 これでは、急ぐどころかかえって遅くなってしまうではないか。家康の心に、後悔の念が芽生えていた。










 ダダーン、ダダーン


 そんな時である。


 突如銃声が鳴り響き、黒い鉛玉が二つ、家康を狙って飛んで来た。


「ななっ……!?」




 幸い二つとも近くの木にめりこんだだけで終わったが、突然の銃声は家康の心を更に混乱させるには十分だった。


「徳川家康だな……」


 そして前方から、謎の軍隊が現われた。山賊や地侍などではない。


 きちんと装備を整え、整然とした行軍をしており、まさに軍隊である。







「ああっ………!!」







 家康、酒井忠次、石川数正、榊原康政ら、その場にいた徳川の者は言葉を失わざるを得なかった。その謎の軍隊は大きな軍旗を掲げていた。






 そしてその模様は紛れもなく、水色桔梗であった。




「あ、明智光秀!?なぜここに!?」


 そして中央に控えるは覇王織田信長を殺した謀反の首魁、明智日向守光秀。その光秀が自ら、家康の面前に現われたのだ。



「何故も何も、信長の最大の協力者であるそなたを捨て置くわけにはいくまい」




 光秀は、信長の遺骸の捜索も安土城の占拠も朝廷との交渉も後回しにして家康を殺しに来たのだ。




「お館様、疾くお逃げを!ここは我々が」

「させない!七人組!」


 当然の如く、忠次らは家康を守るべく犠牲になろうとした。しかし、家康を守らんとする徳川の勇将に対し、光秀は自ら名付けた七人組なる作戦を叩きつけた。


 光秀の言葉と共に一斉に七人一組の部隊が出来上がり、その部隊が次々と徳川の勇将たちに立ち向かって行ったのだ。


 七人を相手にしては、さしもの勇将たちも分が悪い。しかも七人となると周りをほぼ完璧に囲まれてしまうので、強引に無視して家康を救いに行く事もできないのだ。


「どけっ!そこをどかぬか!」


 井伊直政の怒号も届かない。断続的に隙間なく襲い掛かってくる七人組の前に、徳川の勇将も討たれこそしないが完全に釘付けになってしまった。



 一方で、光秀の軍勢は五百近くあり、徳川の将一人に七人の兵を割いてもまだ三百人近く残っていた。




「年貢の納め時だ、徳川家康!」




 家康の孤立を見極めた光秀は、獲物の薙刀を振りかざした。



「こうなれば、お主を斬るより他手段はない!」



 家康ももはや他に手段はなしとばかりに、腰の刀を抜いた。



(半蔵、忠勝、疾く戻って来てくれ!)


 折悪しく、忠勝も半蔵も家康一行の中から離れていた。二人ならば何とかしてくれるはずだ、それまでは生き延びなければ、家康は必死に刀を振るっていた。




 だが数が違いすぎる。正面の光秀だけでなく、左右からもやってくる雑兵たちの槍を前に、家康は攻撃を凌ぐだけで手一杯となってしまった。




「家康、半蔵と忠勝を当てにしても無駄だぞ!今頃あの二人は山賊の格好をした我が軍に釘付けだ!命は守れても間に合うまい!」




 家康は光秀のその言葉で全てを悟った。




 あの山賊たちは、光秀が自らの兵を山賊に変装させた物だったのだ。


 そして、少数の上にみっともなく敗走して本当の山賊と思わせ、家康に全滅を考えさせるように仕向け、家康の戦力を割くつもりだったのだ。


 実際、この時半蔵と忠勝は二百名近い光秀軍との戦いに釘付けにされていた。




「うわっ!」


 やはり、動揺が走ったのであろう。


 馬術の達人であったはずの家康の手綱捌きに狂いが生じ、左右からの槍が家康の馬に突き刺さり馬が横倒しに倒れ、家康は地面に叩きつけられた。




「とどめよ!」



 光秀の薙刀が地面に倒れこんだ家康の首に向けて振り下ろされる刹那、一本の刀が光秀に向かって飛んだ。


 だが、その刀が貫いたのはただ一つ、家康の馬を殺した雑兵だけであった。


 そして、その刀が雑兵に突き刺さると同時に、ドカッと言う音が加太峠に響き渡り、そしてその音と同時に家康の首が高々と舞い上がった。




「逆賊徳川家康、討ち取ったり!!」


 家康の首をつかんだ光秀は高々と薙刀を掲げ、声高に勝利の言葉を叫んだ。




 こうして蓋世の雄と言うべき力を持った英傑・徳川家康は、伊賀加太峠にて明智光秀にその首級を授けることとなってしまったのである。

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