徳川軍、分裂する!

 翌日、辰の刻になってもまだ城外に徳川軍は姿を現さない。



「まだなのですか」

「大久保殿には兵を疲れさせない速度でゆっくりと進軍するようにお願いしている。予定通りに攻撃をしてくれればよい」


 信雄のその言葉を信じ、勝家は攻撃を開始した。実際、あと半刻もすればちょうど今前田軍がいる所に徳川軍が到着するのが勝家にもわかっていたからである。



「柴田軍に遅れを取るな!!」



 当然、信孝も秀吉に攻撃を命ずる。


 今日は羽柴軍・宇喜多軍に加え丹羽軍も加わっており、三万を超える軍勢となっていた。


 だがこの時、徳川軍が柴田軍の後詰に回っている事を、信孝も長秀も秀吉も、酒井忠次らさえも知らなかった。




 信雄が敵を欺くにはまず味方からなどと調子のよい事を言って、信孝軍に対して情報を封鎖していたのである。無論、本心は信孝に対して差をつけてやろうと言う浅ましい考えであったのだが。



 一方、信孝も信雄に対し凄まじいほどの対抗意識を燃やしている。昨日、信雄の命を受けた軍が城門を破ったのに対し、自分が命を下した羽柴軍は破れなかった。当然の如く信孝は不機嫌となり、嫉妬の炎を燃え上がらせた信孝の命により攻撃は苛烈さを増し、信孝の怨念が嵐となって安土城にぶつかろうとしていた。もっとも、秀吉も長秀も宇喜多忠家も、信孝が巻き起こす怨念の嵐をまるで他人事のようにしか感じられなかったのだが。


 それでも目前の敵・光秀をなぎ倒すために、三人ともその嵐に乗っかり激しく安土城を攻めたてていた。


(南側は安心っちゅーわけか……?何の仕掛けがあるって言うんじゃ、光秀よ)


 だが秀吉はすぐさま何かがおかしい事に気が付いた。


 柴田軍に城門を破られて南側が危機のはずなのに、西門を守る兵が昨日から全然減っていない。

 本来ならば、西門を守る兵を少し回してでも南側を何とかせねばならないはずだ。それどころか、むしろ増えていた。

 秀吉も、どうにも光秀の策の正体が掴めなかった。光秀は何かを仕掛けてくるだろう、だがそれが何なのか全然わからない。それだけに不気味だった。




※※※※※※※※※




「遂に来たぞ」


 ちょうどその頃、光秀は甲冑を身にまとい臨戦態勢の構えであったが、その顔には黒く濁ったものが混じったような暗い笑みが浮かんでいた。


「女子供は大丈夫か」

「はい、すでに船の手配は完璧です」


 光秀の傍らには、昨日まで南門の防衛にあたっていた斉藤利三がいた。


「しかし本当にうまく行くのでしょうか」

「案ずるな。筑前さえも我が策には気付いていないようだ。織田家に筑前より策を施せる者はない。よいか、これを決めれば我らの世、上様の世は目前となる」


 利三の疑問にも、光秀は自信満々と言った様子で力強く答えた。そこに物見と思しき兵士が光秀の傍にしゃがみ込み、何かを囁いた。


 光秀は時を得たりとばかりに、力強く立ち上がった。


「今だ!」


 そして馬上の人となった光秀の右手に握られた采配が振られると同時に、ギギギギッと重厚な音を立てて、安土城の南門が開かれた。


「行け!大久保殿と共に、逆賊・信長の手先柴田勝家を討ち果たすのだ!」


 光秀のその言葉と共に、一万の光秀直属軍が柴田軍に突撃を開始した。




※※※※※※※※※




「何?大久保殿と共に?どうなっているのだ?」


 柴田軍の先陣を務める勝家の養子、柴田勝政はどう聞いても大久保忠世率いる軍勢が自分たちの味方であると信じているとしか思えない光秀の言葉を耳にして、少なからず動揺を覚えた。


「落ち着け、ただの流言だ!ここを突破すれば光秀の命脈は尽きるのだ!」


 勝家は極めて冷静な言葉で光秀の流言を振り払った。少し考えれば、主の仇である光秀に忠世のような忠義の士が味方するはずはない事はわかるのだ。それが自分に味方するなどと言い出すとは。勝家は思わず吹き出しそうになった。


「利家に道を開けるように命じろ。大久保殿に主の無念を晴らさせてやれ」


 勝家は忠世に手柄を立てさせてやろうとばかりに、後方を守る利家に安土城内への道を開けるように命じた。利家も命に従い西に移動し、大久保軍の進路を解放した。



「よし、大久保殿がやって来たぞ!この戦、我らの勝ちだ!」


 光秀は葵の紋の旗を掲げる大久保軍を目の当たりにするや、またもや大久保軍を完全に友軍扱いした言葉を大声で叫んだ。


「明智光秀め、とうとう気がふれたか!あんな男に率いられる兵たちも哀れよな」


 光秀のこの言葉に、勝家は本当に吹き出してしまった。この国で最も自分たちに同調するはずのない軍勢が味方だとは。

 籠城の末に神経をすり減らして、向かってくる織田家以外の軍勢全てを味方だと思ってしまったのだろうか。北条や上杉ならともかく、よりによって徳川軍を……。

 勝家の表情から、緊張感の三文字が完全に吹っ飛んだ。






 だが――――――――。


「大久保殿と挟撃し柴田勝家を討て!」

「徳川広康殿、万歳!」


 一万の明智軍全てが、徳川は味方であるという事に対し、何の疑いも持たないと言う口調と叫び、何の疑いも持たないと言う表情で迫ってくる。追い詰められた光秀の妄言と思い込んでいた柴田軍の将兵に、混乱が生じ始めた。





 そして――――――――。




 ズガーン、ズガーン、ズガーン




 焙烙と思しき爆発音が、柴田軍の後方から鳴り響いた。一発や二発ではない。


「な、何だ!?」

「我が軍の後方で、爆発が起きました!十数名の兵がやられました」


 柴田軍の後方でそんな事をする軍隊がどこにいるのか。答えは一つしかなかった。







「徳川は……大久保忠世は光秀と通じていたのかっ!!おのれ、大久保めっ!!」


 報告を受けた将が、佐久間盛政であった事が災いした。

 盛政は勝家の甥である以上にその武勇の才で勝家から寵愛されており、元々柴田軍の先陣は俺だと言う意気込みが尋常でなく高い人物であった。

 今日は昨日の激闘の疲れで後方に回されていたのだを不服として先陣を任せてほしいと勝家に散々頼み込み、結局拒否されたという経緯があった。


 それゆえにかなり苛立ちが溜まっており、普段に増して怒りっぽくなっていた。それに元々が猪突猛進の気が強く知将と言うには程遠い人物であり、冷静に考えればありえないはずの明智軍と徳川軍の連合と言う展開を、明智軍が徳川軍を敵扱いせず徳川軍以外不可能な自陣後方からの攻撃と言うたった二つだけの理由で、信じ込んでしまったのである。


「大久保め、ぶちのめしてやる!」


 盛政は完全に前後の見境を失い、握りしめた槍を振りかざして徳川軍に突撃を始めた。


「こら、何をもたもたしている!俺に続け!」


 頭に血が上った盛政の命により、百人前後の兵士が盛政に付き従い徳川軍に突撃した。


「なぜだ、なぜ織田軍が我らを!?」

「うるさい!織田軍の味方が、どうして織田軍の兵士を爆破しなきゃいけないんだよ!」


 当然の如く呆然とする徳川軍の兵士に対し、盛政はやたらめったら槍を突き出して行く。その結果、三十人余りの徳川軍兵士の命が盛政らの槍によって失われた。


 ダーン


 そしてそこに、一発の銃声が響き、それとほぼ同時にキィーンと言う甲高い音が鳴り響き、馬上の盛政の体がぐらりと揺れた。盛政の兜の飾りに、銃弾が命中したのだ。




「もはやこれしかあるまい!全軍、我らはこれより明智殿にお味方する!!」


 大久保忠世は、右手に持った銃を振り回しながら叫んだ。その叫び声と共に、徳川軍の顔から戸惑いは消え、柴田軍の将・佐久間盛政に向けて攻撃を開始した。




※※※※※※※※※




(やられた……光秀にはめられたわ……)

 忠世の心には無念が渦巻いていた。


 先ほどの爆発を起こしたのは当然徳川軍ではない。と言うより、徳川軍にあんな爆発を起こせる焙烙を作る技術はない。あるとすれば伊賀忍者だが、半蔵が秀吉の下にいる今、配下の伊賀忍者たちは事実上の機能不全状態に陥っており、現に忠世は一人の伊賀忍者も連れて来ていない。




 爆発の真犯人は、丹波忍者だった。忍者と言えば伊賀・甲賀が有名だが、丹波にも優れた忍者が多い。


 そして丹波は明智光秀の本国であった。徳川軍と柴田軍の中間に秘かに丹波忍者を紛れ込ませ、爆発を起こさせたのである。


 ここまで精巧に策を決められ実際に織田軍の攻撃を受けてしまった今、忠世に残された道はただ一つしかなかった。


(ここで本当に光秀に味方し、光秀の天下に貢献するしか道はない……)


 そうすれば、徳川は何とか命脈を保てるだろう。悔しさを嘆けばきりがないが、それを抑えてでもここは家を守らねばならない。忠世の決断は早かった。


「進めーっ!!」


 忠世は悲壮な思いを込めて叫んだ。この先に待つどんな責め苦をも乗り越えて、ただ徳川を守る、それだけのために。




※※※※※※※※※




「バカな、本当に徳川軍が光秀の味方になったというのか!?」

「間違いございません、現に佐久間様が大久保殿の放った銃により落馬させられそうになったとの報が」


 勝家は声を失ったと同時に、とんでもない恐怖が走り始めた。


「お、おい!どうなってんだ!?」

「たわけ!目の前の光秀を討てばすべてが終わるのだ、進め進め!」


 だが勝家とて並の精神力の持ち主ではない。こうなったらもはや前に進み光秀の首を叩き落とすしか勝つ方法はない、ならばそうするまでとばかりに、自らの手勢全てに突撃を命じた。


「よし、今だ!手筈通りに動け!」


 勝家の突撃を見とめた光秀は、自らは三千ほどの側近と共に本丸への退却を開始し、残る手勢に柴田軍への攻撃を継続させた。


 ドガーン。ドガーン。


 そしてそれと同時に、再び爆発音が起こった。南門からではない。




「な、何じゃ!?」


 秀吉が攻撃をかける西門からであった。濛々たる煙が上がり、秀吉は完全に視界を塞がれてしまった。数分後、風が吹いて煙がなくなると、そこにはついさっきまで西門を守っていたはずの兵士の姿が極めてまばらになっていた。


「逃げたのか……?」

 この西門をくれてやってどこに逃げようというのだ。本丸か。


 だがこれまで延々攻撃をかけて来て全然破れなかった西門を放棄してまで本丸に籠る利点などない。とすれば、逃げる場所など存在しない。


「申し上げます、一大事でございます!!」

「なんじゃ、手短に申せ」

「大久保殿が明智方に寝返り、柴田軍の後方を攻めております!」




 そしてこの時になって、長秀も信孝も秀吉も、やっと大久保忠世が徳川軍を率いて増援に来ている事を知り、その徳川軍が寝返ったことを知った。


「馬鹿な!?」

「な、なぜだっ!なぜ兄はそんな重要なことをわしに伝えぬ!」

「ど、どうなってるんじゃ……?」


 長秀はあり得ない事態に茫然自失し、信孝は信雄の不誠実な態度に激しい憤りを覚え、秀吉も何がどうなっているのだと叫ばずにいられなかった。


 だが、秀吉の混乱しかかっていた頭脳は突如一つの結論を弾き出し、それと同時に冷静さを取り戻した。


「いかん、本丸に近付いてはならん!!」

「はい?」

「いいからとりあえず柴田殿に伝えてくれ!他の皆にも早く頼む!」


 秀吉は必死の形相で忠世の寝返りを伝えた大谷吉継に命令した。


「しかし、では、どうすれば」

「……城外に利家が控えておったな、奴と合流する!」


 秀吉の命により、羽柴軍は南門の後方にいた前田利家軍と合流する事となった。

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