第三章 東の事件
真田昌幸、野心を目覚めさせる
さてここで時は再び六月四日まで遡る。
とある城の片隅の狭い一室で、二人の男が額をつき合わせんばかりの距離で何かを囁きあっていた。
「信長公が死んだ……!?」
「間違いございません」
「下手人は誰だ」
「明智日向守でございます」
一人は羽織袴を羽織った見るからに武士と言う姿で年齢は三十半ば頃だが、それにしては随分と百戦錬磨、海千山千と言う言葉が似合いそうな目を持っており、もう一人はまるで山伏のような格好をしていた。
「こちらを」
「おお……間違いなく明智日向守の署名の入った文ぞ。
どれどれ……北条左京大夫(氏直)殿に申し上げます、北条を脅かさんとする織田信長はこの明智日向守が討ち取りました、貴殿には関東管領を私称する滝川一益の軍を殲滅していただきたい、さすれば上州と信州、ひいては関東全てについてこの明智日向守、北条にすべてお任せいたす事を誓います、か。なるほど、よくわかった、下がってよい」
「はっ」
山伏の格好の男が音も立てずにいなくなると、羽織袴の男は今まで引き締まっていた顔に嫌らしい笑みを浮かべた。
「全く時代と言うものはどう転がるかわからぬ……いや自分で、自分のために転がすのがこの時代なのだが……」
羽織袴の男はふと外に視線を動かし、西の空を見つめた。
「だがな、時代を転がそうなどという大層な事を考えている男が自分一人だと思ったら大間違いだぞ……日向守。わしも、負けずに時代を転がしてやるぞ」
その羽織袴の男・真田安房守昌幸は、光秀の書状を折りたたんでひざの上に乗せしばし思慮をめぐらすと、やおら立ち上がった。
「何だと!?それはまことか!?」
「間違いございません、光秀の間者をそれがしの手の物が捕らえましてこちらを」
上野・厩橋城内に滝川一益の驚愕の声が響き渡った。
「おのれ……光秀め!」
この年の二月、信長の嫡子織田信忠率いる武田討伐軍により武田氏が滅亡し、上野一国と信州の小県郡・佐久郡を貰い受けた一益は、同時に関東管領を名乗り真田昌幸ら武田に仕えていた諸侯たちをまとめていた。
「落ち着いてくだされ。北条に先に知られていたらそれこそこれ以上の大事です」
「う、うむ……そうだな。だが北条も遅かれ早かれ光秀の謀反を知る。その時にどうすべきか……」
「ご心配はございませぬ。それがしに一計がございます」
「申してみよ」
「この真田安房守めを信じて下さるのなら」
随分上からの物言いであったが万が一真田が北条もしくは上杉に乗り換えようと言うのならば、わざわざ信長の死を教えるはずはないだろうと言う事は子供でもわかる理屈であり、それが真田に上からの物言いを許していた。
「信じよう。で、どうすればよい」
昌幸は一益の耳元で、その「一計」を囁き始めた。
「そうか……ではそうしよう」
全てを聞き終わった一益は、安堵の表情を浮かべながら溜息を付いた。
※※※※※※※※※
「もぬけの殻だと!?」
「間違いございません」
翌日、武蔵国河越城に滞在していた北条家現当主・北条氏直は驚愕の声を上げた。
「何でも、織田信長公が明智日向守に殺されたと聞くや、泡を食った様子で取るものもとりあえずほぼ身一つで美濃へ退却をしているそうでございます」
「まさか……」
「間違いございません、こちらを」
そう言いながら北条の間者と思しき男は、懐から一通の書状を出した。
「……明智日向守の親書か」
親書の真ん中には、はっきりと桔梗の花押が押されていた。もし一度でも開かれているのならば、その花押は歪んでいるはずであった。
だが、花押は実に整然としており、開封された実績がない事を如実に物語っていた。
「滝川一益を殲滅すれば上州、信州を含む関東全てをお任せいたします……か。おい、滝川左近の逃亡の様子はどうだった?」
「それはひどい物で、一応軍事物資や兵糧は持ち帰っていたものの、肝心な人質を置き去りにしておりました」
「何……」
人質という言葉に、氏直はいぶかしげに首を傾げた。
「人質というと……真田だの内藤だのから取っていたか?」
「ええ」
「それで人質たちはどうした?」
「一人残らず元の家に戻ったようでございます」
「わかった、下がってよい」
北条の間者と思しき男がいなくなると、氏直の口から笑い声が飛び出した。
「フフフフ、滝川左近も随分と間抜けな男だな。信長公の元で随分な戦果を上げてきたというが、それも所詮は信長公の七光りだったと言う事か」
人質がいなくなり、肝心の本人とその軍隊もいないとなれば、信濃や上野の諸侯は目下圧倒的に巨大な勢力である北条になびくのは明白ではないか。
そうなれば上野と信濃はほぼ確実に掌中に収められ、北条は押しも押されもしない関東の王者になれる。
さらに、未確認情報ではあったが徳川家康が光秀の手によって落命していると言う話も飛び込んできている。それが真実ならば、駿河や甲斐だけでなく、遠江・三河すら手にする事ができるかもしれない。
そうなれば、天下の二文字さえ見えてくるのだ。
もっとも、北の越後には上杉景勝がおり、そちらを頼らんとする諸侯がいないとは限らない。だが上杉家は御館の乱とそれに続く新発田重家の謀反で大幅に力を落としており、かつてのように北条と真正面から戦える力はない。
危うい点があるとすれば、西の越中から越後に圧迫をかけていた柴田勝家が信長の死を知り攻撃を止めてしまう可能性がある事であったが、それを加味しても今の弱体化した上杉なら十分凌げる、その自信が氏直にはあった。
「誰か」
「はっ」
「すぐさま氏邦叔父上を呼んでくれ!」
氏直は、北条氏邦の驚く顔と北条の版図拡大を楽しむように、顔にだらしない笑みを浮かべていた。
「それは驚きだな、まさか信長公がな」
「それはまあひどい逃亡ぶりだったとの事で」
氏直は、河越城の天守閣で浮かれ上がった顔を抱えながら氏邦に事の顛末を話していた。
「それから、これは未確認情報ですが、徳川家康も死んだそうで」
「えっ」
「さらに、上杉も内乱の真っ只中。これは我々にとって天佑というもの。今すぐ上州に進出いたしましょう」
「……うますぎるとは思いませぬか」
甥ではあるが、当主である氏直に氏邦は敬語で諫言した。
まだ二十一歳の氏直に対し四十一歳の氏邦はそれだけ戦績も豊富であり、このあまりにも絶好すぎる機会に対しどこか胡散臭いものを感じていたのである。
「と申されますと?」
「滝川左近と言う人物、関東諸侯をずいぶん手懐けていた様子。たかが三ヶ月少々とは言え関東諸侯の左近に対する信頼は侮りがたいものがありましょう。わしには人質を置き捨てたのも策に見えまする」
「策と申されますと、人質は事実上解放したと清廉で高潔な面を見せ、関東諸侯を味方に留めさせようと言う案ですか?それはないでしょう。
何せ、仮にすぐ光秀が討たれたとしても、当分の間左近に従っていた諸侯を支援する軍はありません。上杉も織田とは同じ天を戴けない仲、そんな状況でわざわざ死地に立つほど左近に懐いた軍がいますか?」
「しかし……」
氏邦がなおも氏直を諫めようとした時、一人の兵士が飛び込んできた。
「申し上げます。忍城城主、成田氏長様が単身で参られました。どうやら降伏したいとの事にござります」
兵士の言葉を聞いた途端、氏直の顔が更に緩んだ。
「ほら御覧なさい叔父上。早速、我らに味方せんとする者が現われました。この機を逃がして何とするのです」
「う、うむ……」
氏邦も、信長の死を聞いたとき以上に呆然とした表情で思わず頷いた。
「成田殿には降伏を認めますと伝えてくれ。忍城もそのまま、人質も不要だとな」
氏直は随分と気前のいい条件を氏長に提案した。無論これは、他の諸侯をなびかせるための策であるのだが、それにしても寛大であった。
「ちょっとさすがにそれは……」
「いや、まあ次に戦う時は弾除けの先鋒を務めてもらいますが」
降伏したばかりの者を先鋒の弾除けに使うのは、敵前逃亡などは許さない家臣として仕えるというのなら誠意を見せろというこの時代の伝統である。
「それなれば」
「では叔父上、明日にでも出陣いたしましょう」
氏直は緩んだ顔を引き締めて立ち上がり、河越城の将兵たちに信長の死、滝川一益の逃亡、成田氏長の投降を布告した。
「今こそ、上野全土に北条の旗を立てるのだ!」
氏直の叫び声に答えるように、将兵たちが歓声を上げた。危惧を抱いていたはずの氏邦さえも、この征伐の勝利を確信するようになった。
そして翌六月六日、成田氏長を先鋒にした北条軍四万五千は一路上野に向けて出征を開始した。この四万五千の大軍の総大将である氏直は、自信満々と言った様子で馬上で胸を反らしていた。
しかしこの時、氏直はすでに詐術に嵌っていた。
実は真田昌幸の忍びが北条に書状を届けようとしていた光秀の間者を謀殺し、自分の手に一日留め置き、殺した光秀の間者に成りすました真田忍びの手によって北条の忍びに手渡されたのである。
要するに、昌幸はわざと一日遅く氏直に信長の死の情報が渡るように仕向けたのである。無論、昌幸が一益に見せた書状も、別の明智の間者を殺して手に入れた本物である。光秀は慎重を期すために間者を複数人各地の大名に送っていたのだが、昌幸はその複数の使者を殺し、複数の書状を手に入れることに成功したのである。
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