烈風本能寺~もしも徳川家康が伊賀越えできなかったら?~
@wizard-T
序章 本能寺の変
序章 本能寺の変
天正十(1582)年六月二日。
この日、誰も、何も、警戒していなかった。
次の天下人と呼ばれた今川義元が桶狭間の戦いで敗死してから二十二年。
その戦いで義元を討ち取った尾張の小大名に過ぎなかった織田信長は、今や西は備前から東は甲斐・信濃までを手中に収め、同盟者である徳川家康の領国も含めば日の本六十四カ国のほぼ半分、およそ三十カ国を織田家の勢力が占めるまでに至っていた。
応仁の乱以来百年以上にわたって日の本に被さり続けて来た乱世を断ち切るべく、その男は走り続けた。
旧弊に挑み、流すべき血を流し、奪うべき物は奪った。
そして三ヶ月ほど前、信長は長年にわたり悩まされ続けてきた一つの壁をついに打ち崩した。
武田家である。
鎌倉幕府ができた時から、甲斐の守護であり続けた旧き家。
強敵・武田信玄の死、そして長篠での完敗を経てなお大きな力を持ち続けた伝統の名家は、信長が目指す新たなる時代への高い障壁であった。
その武田家もまた、覇王・織田信長の手によって遂にその息の根を止められたのだ。
今、その覇王は京の本能寺にあった。覇王と共にいる者は、わずかに七十名余り。だがそれを、無警戒と言う者はいなかった。
また、信長の覇業を支えてきた寵臣たちもここにはいなかった。
足軽から取り立てられた智将・羽柴秀吉は中国地方の覇者・毛利家と戦い、信長の股肱の臣たる丹羽長秀は信長の三男・神戸信孝と共に四国の長宗我部家討伐に向けて摂津で軍備を整えており、掛かれ柴田と称された猛将柴田勝家は北陸にて上杉家に迫り、伊賀忍者の一族とも言われる滝川一益は武田滅亡後の北信・上野を与えられ、関東管領として小田原の北条家と戦っていた。
しかし、それでも信長を無用心と呼ばわる者はいなかった。
もはや、織田家の天下を覆すことなど、どうやってもできないのではないか。
それが皆の共通認識であった。ただ、一人を除けば。
「もはや、これ以上は耐え切れぬ」
その男は、端正な顔立ちに怒りを隠しながら唸っていた。
「しかし日向守様、本当に行くのですか?」
「ああ、これ以上は放置できぬ」
明智日向守光秀。美濃守護家土岐家につながる名族であり、信長の正室である濃姫の従兄弟にあたる人物であった。濃姫の父である斉藤道三の死後浪々の身となり、朝倉家を経て信長の下に仕え、大名にまで出世するに至っていた。
「秀満…………新しければよいのか?古い物は全て悪なのか?」
「それは……」
「そうだ。全て物事には由縁がある。それを何もかも認めようとしない。それでは、生きる人の心が休まる事はない」
光秀は伊勢長島や比叡山での焼き打ちの事を思い返していた。
あの時、信長は抵抗する農民や坊主を皆殺しにした。正直な話、それだけでも良心が痛んだ。
だが、それはまだ我慢ができた。この国が根から腐っているというなら、一度根ごと断ち切ってしまう必要があると思ったからであった。
しかし、光秀にはどうしても我慢ならないことがあった。
「確かに彼らは金と欲に塗れた最低の者たちです!ですがかつての高徳の、澄み切った僧の信仰まで踏みにじる事はありますまい!」
「黙れ光秀!生臭坊主共の罪はその高徳の僧とやらの罪でもあるわ!本当に高徳の僧であるのならば、こうなる前に仏罰を加えておろうに!」
比叡山の時である。信長は、坊主たちを虐殺するのみならず、寺にしまわれていた仏像や経典まで破壊するように命じたのだ。
「しかし、仏像まで破壊する必要はございますまい!仏像には何の罪も」
「あるわ!坊主どもの悪行を黙って見過ごしてきた罪が!坊主が仏の名のみを借りて肝心の信仰の道を踏み外すを見過ごしてきた罪は、彼奴らによって無用の苦しみを与え続けられてきた者たちに尽くして償わせねばならん!」
信長は仏像を叩き壊して鋳潰し、永楽銭や武器などに変えて配下の兵や坊主の収奪に苦しめられてきた民に分け与えた。
当然、旧き弊政に苦しめられた民からは歓呼の声を受けたが、光秀にとっては壊す必要のない物を壊した暴挙であり、暴走だった。
思えばその時芽生えたのだろう、信長への疑心と怒りが、時を追うたびに肥大し、もはや抑えようがなくなっていた。
「もはや迷いはござらんか……」
「うむ。秀満、利三。どこまでもついて来てくれるか」
「無論」
「では、行くぞ。敵は本能寺にあり!」
この日、明智日向守光秀は、明智秀満・斉藤利三の二人の寵臣と共に、一万三千の手勢を本能寺へ向けた。主・織田信長を討つために。
※※※※※※※※※
「明智日向守様、ご謀叛!!」
信長寵愛の小姓、森蘭丸の声が本能寺に響く。
既に夢の中に入りかかっていた覇王は体を起こし、傍らの弓を手に取った。
「早くお逃げください!ここは私が」
そんな声は聞こえないと言わんばかりに覇王は弓に矢を番え始めた。まるで、謀反人・光秀を待ち受けるかのように。
まもなく、本能寺に火が放たれ始めた。旧暦六月、梅雨はとうに過ぎ、本能寺の木材も乾ききっていた。
「全ては運命……」
しかし信長は、本堂にも火が燃え移らんとしているこの状況の中、まるでそこで戦が起こることを予期していたかのように、平然と明智軍の雑兵に矢を射ていた。
道連れを一人でも多く作ってやろうとか、あわよくば立ち向かう者を全て倒して生き抜いてやろうとか、そんなありふれた概念を超越した行動であった。
だが、いかに操る人間が素晴らしかろうと、弓は特別ではない。数本ほど矢を放った所で、弓の弦が切れてしまった。
しかし信長は泰然と自分が倒した兵から槍を奪い取り、更に明智軍の雑兵、十数人の命を奪った。
その間にも、火は燃え広がり、わずかに信長を守っていた者たちも徐々に数を減らして行った。
「これ以上戦えばこっちが逃げられなくなる!」
「しかし、まだ信長は」
「もはや逃げる道はない!信長はもうこれまでだ!」
遂に、信長に攻撃をかけていた明智軍の兵士が先に逃げ出した。
「………」
信長は彼らの姿が消えるや、本能寺の本堂に入りながら扉を後ろ手に閉めた。その本堂ももはや、焼け落ちるのは時間の問題だった。
「人生五十年下天の内を比ぶれば夢幻の如くなり」
覇王は、二十二年前の桶狭間の時と同じ、敦盛を舞った。
※※※※※※※※※
「申し訳ございません」
「よい。それではもはや助かるまい」
信長の下から逃げ出した兵士たちを、光秀は責める事はしなかった。
「それより、二条城はどうなっているのだ」
二条城には、織田信長の嫡子・信忠がいる。父ほどではないが確かな才覚を持った人物であり、織田の天下が安泰と皆が思っていたのは、この信忠の才覚による面もあった。
信忠がいる限り、織田家の天下は覆せない。光秀は、二条城襲撃を担当した斉藤利三からの報告を心待ちにしていた。
「申し上げます!織田中将様、討ち死にを確認!」
「まことか!」
「しかし、残念ながら中将の子息、三法師は逃がしてしまいました!」
「構わぬ。あんな乳飲み子まで殺す必要はない」
そこに光秀が待ち望んでいた情報を持って伝令が飛び込んできた。
織田信忠。正式には信長は隠居しており、織田家当主であった人物。その彼がいる限り、織田家は信長を失っても安泰だと思われていた。
その織田信忠をも討ち取れた事に、光秀は非常に安堵していた。
そして信忠の子三法師は、時に数えで三歳。
信長や信忠の代わりが勤まるはずもない。
それに、信長の暴虐を阻止するためにと言う名目で立ち上がらんとしている手前、いくら織田の血族でもそんな乳飲み子を殺すのは世間的によくない。
だが、乳飲み子の織田の後継者に、信長はおろか、信忠にも遠く及ばない器量の北畠信雄や神戸信孝といった信忠の弟たち。
いずれにも、日の本のほぼ半分を占める織田を支えることはできない。
ここに、天下の中枢を占めていたはずの織田家は、わずか数時間で事実上雲散霧消したのである。
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