第23話 破談 ⑥
紗羅が仏間の障子戸を開けると、座卓の前に淳之介の姿が無かった。石油ストーブで温まっていた室内の温度は下がり、仏壇の正面の襖が半間足らず開いていた。仏間の正面には檜隈家の三つ連なる表座敷の内の中座敷があった。法要の際には、二部屋を間仕切るこの襖を取り払って仏間と一繋ぎとなっていた部屋だ。
暗い中座敷の畳の上に、仏間から電灯の灯りが漏れ込み、その先の中座敷と上座敷とを間仕切る襖の前に、淳之介は座布団も敷かずに胡坐をかいて座り、体は下座敷の方に向けて、ガラス戸の向こうに続く庭を眺めていた。
紗羅が中座敷の電気を点けると、淳之介は眩しさに目を顰め、後ろに手をついて身体を仰け反らせ、中座敷へと入ってきた紗羅を見上げた。
「紗羅ちゃん…か」
紗羅は、淳之介の右膝の先に座り、右横に置いたお盆を体の正面に持ってくると、急須から湯呑へ茶を注ぎ、淳之介の前の畳の上に茶托を置いた。
「何をされてたんですか?」
「ん? いや、まぁ。ちょいと酔いを覚まそ、思てな」
淳之介は後ろについた手を元に戻すと、紗羅の淹れた茶を飲んだ。
「温いの。ちょいと冷えてたから有難いわ」
「それは、良ぉございました」
「そういや、紗羅ちゃんは、あの晩もこうやって給仕してくれよったんやったなぁ」
淳之介は湯呑を茶托に戻しながら、懐かしそうにしみじみと言った。
「あの晩?」
「うん…。ほれ。桂様の嫁さんの七回忌や…」
「えっ?」
紗羅はギクリとして身体を強張らせた。台所で思い出したばかりの忌まわしい過去。挑発されるまま初めて自分から桂の唇に口づけをした。そんな、自分の頭の中にだけに流れる映像を、淳之介に見透かされた気がしたのだ。
「…実は、桂様の嫁さんいうのは儂の母親の妹でなぁ。そもそも、儂が桂様と会えたんは、その縁のお陰があったからなんやけど…って、紗羅ちゃん?」
紗羅の動揺に気づかぬまま喋り続けていた淳之介だったが、ふと紗羅の顔から血の気が引いているのに気づきギョッとした。
当然の事ながら、淳之介は桂が紗羅にしていた事は知らない。まさか父が娘を好んで玩具にしていたなどとは思いもよらぬ事であった。
七回忌の頃。紗羅の父親は海人の亡くなった伯父の悟郎ではないか、という噂が流れており、この日、初めて紗羅を見た淳之介は、彼女の存在を知ると同時にその話も聞いたので、彼女の背後のうっすらとした金のオーラは、その場に桂もいた事から、桂の発するオーラの残像のように感じていた。
しかしその後、東京の陸郎の家に引き取られていた彼女と再会し、はっきりと彼女の背後に金のオーラを見て、彼女が桂の娘であるのを確信してからは、桂の能力も受け継いでいる娘として特別視し始めた。
彼女を気にかけ始めた時、彼女がまだ中学生の少女であった事から、こと男女の事についてのみを取り上げるならば、淳之介の中の沙羅は、今もまだ、その頃のままであった。それは丁度、自分がどれほど女性を食い散らかしていようとも、彼の娘が結婚して母となっても尚、その本質は嫋やかな生娘である事を幻想する父親の心境のようなものである。
だから、紗羅の動揺は、七回忌の夜に、衆人の前で淫らを晒さされた鏡子の姿を目の当たりにし、大人の生々しくも汚らしい性の世界を忌避する心の表れなのだと思った。
「いや、なぁ。紗羅ちゃんには刺激が強すぎたよなぁ。こまい時期に、あんな事されよる鏡子を見たら、吃驚するよなぁ」
紗羅は、何故、突然、淳之介が鏡子の話を始めたのか、その意味が解らなかったが、桂の思惑通り海人に恋焦がれる自己暗示にかかり、彼の妻になれた迄は良かったが、ついに最後の最後まで海人の心を占めていたのが鏡子であった怨みが、七回忌の夜に彼女が受けた辱めを思い出し、留飲を下げながら、正気に戻った。
正気に戻れば、申し訳なさそうに眉尻を下げて眉間に皺を寄せる淳之介が、紗羅の中の少女を慮って鏡子の話をしたと言う事も解った。
その夜の鏡子の無様な姿に、ふと笑みを零しそうになったが、彼の思い違いを利用して、口の端のゆるみが隠れるように唇を掌で覆い隠し、鏡子の陰惨に怯えたように擬態した。
「いえ…あ、その…、私は、その様子はあまり見てはいないんです。あの人が見えられた時は、お酒の追加を運んでましたが、引っ込む様に言われて…片付けを終えた頃に皆様の笑う声と一緒に、鏡子さんの、その…声も聞こえて…それで…なんとなく…その…」
「そうかぁ。声、なぁ。…まあ、桂様の事や。囲っとったんは鏡子が最後やったみたいやけど、ヤカ子さんみたいに、女中のまま、手、つけとったりもしよったんやろしなぁ」
ヤカ子とは、桂の跡継ぎであった友雄の実母である。
「…でも、なあ。まぁ、あの趣向は、儂らにとっては『流石、桂様』ってな具合のもんやってなぁ」
淳之介はそう呟くと、顔を再び庭に向けた。いらぬ事を思い出させた紗羅への申し訳なさもあったが、あの夜の事に耽りたくもあったのだ。
「海人くんもなぁ。あの晩、儂がここに座っとった事に気づかんかったわ。もし、気づいとったら、鏡子を誰が連れ去ったか、も、解ったやろうになぁ」
「……あの。もしかして…あの晩…」
「うん。まぁ、…なぁ」
返事そのものは曖昧であったが、庭を眺める淳之介の顔が、じんわりと醜悪に歪んでいく。
初めて会った海人に何か思う所などありようがない。だが、桂が海人に投げつける言葉を聞いていれば、海人と鏡子が惚れ合っていた事ぐらいは察しがつく。その夜の鏡子は絶品であった。桂によって開発されていた感度の良さは元より、寸止めで極限まで燃え上がらされた熱い肌に加え、彼女の胸の中にあった密やかな聖域を無残に踏み荒らされた悲哀がごちゃまぜになった彼女の実体に、さっきまで眺めていた海人の沈黙の憤怒の影を合わせて、ぐしゃりと握り潰す恍惚は、快楽を越えていた。
「ほんまになぁ。…桂様は凄いお人やったわ。なんもかも、桂様のお膳立て通りやった」
桂のお膳立て。
淳之介が鏡子を抱いたのは、勝負に勝ったからではなかった。
勝ったのは桂だ。
桂は、自分が勝って得た鏡子と寝る権利を、遠方からわざわざ足を運んでくれたからという理由で、あっさり淳之介に譲った。
桂は海人には、いかにも今夜、自分が鏡子を抱くように思わせて、小一時間、桂の愛撫に乱れる彼女を見せつけて解放したのだが、もうすでに何人もの男を咥え込んでいた鏡子が、桂しか男を知らぬように思わせていた。
鏡子は、彼女の実家から桂が買い、檜隈家の所有物にした女であり、桂が死んだ後、彼女の所有権は友雄に移る。その友雄といえば、予科練から帰った後、自堕落に耽り、戦後に崩れる事なく学校に通う海人に、勝手に敵愾心を持ち、強烈な劣等感を抱いていた事は周知の事実で、桂の死後、海人がどれだけ頼み込もうと、鏡子を海人に譲るわけが無い事を、海人も重々解っていた。
だから、大学に受かって東京に向かった後、海人が桂の葬儀にも参列せず、檜隈村へ帰省して来ないだろう事を予想していた桂は、やがて海人が聞くであろう鏡子の消息──檜隈家の抱えた借金のかたとして彼女が女衒の手に渡って東京の悪所へ行き、一人や二人の決まった男だけでなく、見ず知らずの、その場限りの男や、それこそ駐留米兵にまで女を売って生きていくしかない身の上に堕としたのは、海人自身の怠慢が招いた結果で、もし、帰っていたならば、鏡子を救い出せた機会もあったのだという悔恨を植え付けた。
そして、他の一族の者達等には、それこそ自分の傍に鏡子がいるように思わせながら、実際の所は、この日から一ヶ月ばかり逗留していた淳之介に、この夜に鏡子を抱く値千金の優越感を味合わせた返礼に、鏡子とその娘の十貴絵を受け取った事を、海人の耳に入れない約束の元に譲渡し、その後の鏡子の使い方まで指示して、連れて帰らせていた。
淳之介が口にした桂のお膳立てという言葉は、教わった通りの使い方をした鏡子が、彼が思った以上の成果をもたらし、元々の楡崎家の財と合わさって、何の主体もなく、ただあらゆる職種の株主であっただけの楡崎家が、
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