第19話 破談 ②
紗羅が海人と書類上の結婚したのは中学を卒業後、誕生日を迎えてすぐの16歳であったので、海人が紗羅を連れて家を出たのは、そういう対象として全く見ていなかったからともいえる。
海人には紗羅と結婚する前から、彼に身体を馴染ませてくれる女達がいた。中でも
海人の父の
その時には、二人の間には
マコが亡くなった後、徳田高壱を海人は認知して、海人夫婦の家に引き取られた現在の彼は、海人の興した檜隈産業株式会社の専務をしている。
★
「海人くんは、美鈴と紗敏くんがまとまるようなら、高壱くんと紗羅ちゃんを養子縁組させて檜隈家を継がせるような事を言っとったが…それも、知らんかったかの?」
紗羅がこくりと頷いたのを見て、淳之介は眉間を寄せ後頭部を掻いた。なんともいたたまれなかった。俯いたままの紗羅に、それ以上かける言葉がなかった。
「…あの人は…」
ポソリと呟いた後、紗羅はフッを笑みを零した。
「ほんとに、ねえ。あの人は鏡子さん以外の事はどうでも良かったんですねぇ」
小さく鼻をすすりながら呟き、紗羅は膝頭を上げて座布団を後ろにずらし、膝を淳之介の方へ向けると畳の上に正座をして、深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。淳之介様。私、いくらそれが海人の遺言であり、美鈴様が望まれていらっしゃる事だとしても、それだけは承服する事はできません。どうか、御勘弁下さいませ」
「ちょ、ちょお…紗羅ちゃん?」
詫びられて、淳之介は紗羅の方へ体を向け、紗羅の肩に向けて両手を伸ばした。すぐにでも頭を上げてほしかった。だが、紗羅が伏せた顔にあたる膝頭を包むスカートの裾に涙を含ませているのが気配で解り、泣き顔を自分に見せない事が紗羅のプライドなのだろうと思った。
「紗敏は渡せません。あの子だけが、この檜隈家の、海人の跡継ぎです。高壱にも、他の子にもそれだけはさせません。他の子なら誰でも、美鈴様の婿に持って行って下さって結構です。ですから、あの子だけは、どうか」
淳之介は細い溜め息をつくと、紗羅の背中に憐れむ目を向けながら
「頭、上げてくれんか?」
と声をかけながら紗羅の左肩をぽんぽんと軽く叩くと、座卓へと向き直った。手持無沙汰に猪口の縁に唇をあてて高台を上げると、ほんの一滴が舌に滲むだけであったので、自分の猪口のついでに紗羅の猪口も満たす。
「紗羅ちゃん…まぁ、呑もうや」
そう言って、ちびりと舌を湿らす。
紗羅はその言葉に、ようやく伏せた顔を半分ほど上げ、今は左横にある座布団を元の場所へ引き寄せ、のろのろとその上に座った。自分の猪口に満たされた酒に気づき、淳之介の優しさに恐縮しつつ、半分ほど飲んで口縁から唇を離すと、ほぅ、と、息をついた。
「海人くんもなぁ…紗敏くんに無関心やった、いうわけやないで。さっきも聞いたけど…紗敏くん…あんま、よおないんと違うか? 海人くんは、紗敏くんは楡崎の婿にして、光同会病院で診てもらいたいような事も言いよったしなぁ」
それは、淳之介の嘘であった。
「…もし」
ことりと猪口を座卓へ置き、紗羅はぽそりと口を開いた。
「もし、その話をあの人の口から聞いたのなら、私はそれを受け入れたかもしれません。あの人が紗敏の事を考えて下さった証ですから。…ですが、淳之介様も御存知でしょう。あの人…最初こそ、社長らしくなさってましたが、東京へ行っては女の人を拾って帰って…ここを建ててからは、中門外の別宅に住まわせて…その挙句」
紗羅は、指先で触れていた小さな猪口をぎゅっと握り、眉間を寄せ苦悶を浮かべた。それから、ギュッと閉じた瞼を開けた後、不意に首を淳之介の方へ向けて寂しげな笑みを浮かべた。
「本当に、淳之介様のご教示がなければ、今、こうしてなどいられませんでした」
もうとうの昔に亡くなった徳田マコ以外にも、海人には複数人の妾がいた。弓削アキなどのように時代に捨てられ、海人が鏡子の面影を垣間見た女達である。海人はその女達の面倒を見て、その結果、子供が生まれるのは自然の事であり、婚外子として認知もしていた。
妾達はともかく、嫡出の紗敏の半分は庶出の子供に相続権があった。もし、海人の興した会社が有限会社のままであれば、彼等はその権利を振りかざす事も可能だっただろうが、紗羅は、有限会社であった頃から補填していた運用資金を紗羅個人の負担としており、株式会社とした時には、海人は社長のまま、会社の真の所有者は紗羅であった。土地家屋にしても夫婦の共同名義にしていたので、庶子達の相続分は、それまでの養育費を充分に出していた事もあり、現金で賄った。そうする事を勧めたのが淳之介であった。
淳之介は、それでも海人の愚痴を零さない紗羅のいじらしさに、父が子に向ける慈愛をこめた笑みを返す。
口に含む煮物の蓮根を咀嚼して喉に下し終えてから淳之介は口を開く。
「…紗羅ちゃんには儂も世話になったんだから当然だ。美鈴の事も…美鈴がただ可愛いだけの孫の枠に収まらず、儂の望む以上の娘に育ったのも…紗羅ちゃんのお陰なんじゃから。儂が、紗敏くんをくれるという海人くんの話に乗ったのも、紗敏くんが海人くんの子、いうんやなくて、紗羅ちゃんの息子やからや。…紗敏くんにも、紗羅ちゃんや美鈴同様、あの天性の勘働きがあるんじゃろ?」
紗羅は、少し間を開けてから、こくりと頷いた。
「やっぱり、そうか」
淳之介の瞳が爛と光った。
「何故かは知らん。が、儂にはそれが見える。あの無敗の博徒だと吹いていた爺さんが発する金色の光…オーラとでも言うんかな…それが見えた時から、男でも女でも、儂が惹かれるんは同じオーラを発しとった。鈴与然り、桂様然りじゃ。鈴与…美鈴の祖母にそれが見えた時、儂は自分が惹かれる者にそのオーラが見えるんじゃと思った。桂様の嫡男の友雄くんに、それが見えんかったのは、彼が桂様の女好きばかりを受け継ぎ、どうしようもない男やけんやと…なぁ。やから、陸郎さん家に引き取られた紗羅ちゃんに同じオーラを見て…ほんまに魂消たもんや。どう考えても、儂の守備範囲や無いけんなぁ」
紗羅が淳之介の話を聞きながら猪口に酒を注いだ。淳之介は高野豆腐を四つに割って、その一片を食い、紗羅の注いだ酒で流す。
「せやけん解ったんや。どういう経緯かは知らんけど、鈴与は、あの爺さんの子で、桂様にも爺さんと同じ血が流れとるんやないやろか、と。そしてそれは、女の遺伝子なんやないか…となぁ」
女の遺伝子とは、X遺伝子の事である。
そして、X遺伝子は、母から二分の一の確率で子へ、父から娘へとは遺伝するが、父から息子へは伝わらない遺伝子である。
「…」
「なあ、紗羅ちゃん。紗羅ちゃんのお母さんは、ふしだらや、言われた桂様の姪っ子やったよな」
ビクリと肩を怒らせ、銚子を落としそうになった紗羅の手を、淳之介は、銚子ごと包むように握り、もう片方の手で肩を抱いた。
淳之介は、紗羅の耳に向けて、声を押さえて囁く。
「今まで、何も知らんやろう海人くんの手前言わんかったけど、紗敏くんの体の弱さ。あれは、紗羅ちゃんが桂様の子やからやないんか? それから、伯父と姪の間に生まれた沙羅ちゃんと、恐らく、やっぱり桂様の血を引く海人くんとの異母兄妹の近親姦の所為なんちゃうか?」
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