第24話 破談 ⑦ ~淳之介と紗羅~

 七回忌の後、淳之介と紗羅が再会したのは、友雄の死後、東京で暮らし始めた陸郎の家に、檜隈の分家の当主と共に、淳之介が訪れた時である。客間に通された淳之介は、庭で遊ぶ空也の面倒を見る中学生の沙羅を窓から見かけ、彼女の背に金のオーラを確認した。

 紗羅に興味を持った淳之介は、やがて、陸郎の家でとして働く紗羅を引き取りたい旨を、陸郎を通さず、直接、紗羅に話した。陸郎を通せば、紗羅の意志に反するからだ。その時は、それ以上の事を紗羅に話す事は無かったが、紗羅の気持ち次第で、ゆくゆくは、価値の無くなった妻と離婚し、二十歳以上の年齢差はあるものの、妻に娶るあわよくばな心づもりもあったし、それが叶わぬならば、子供だけを産んでもらう事や、楡崎家の養女に迎え入れて、次世代での血の結合なども視野に入れていた。

 学生と女中の二足の草鞋を脱ぐだけでなく、お嬢様然として不自由ない生活をさせてあげられる事など、普通なら断られようのない好条件で口説いたが、紗羅は、家には殆ど寄り付かない海人との縁が切れてしまうからと、その話を断った。

 紗羅の想いを知った淳之介は、陸郎にそれとなく提案して、海人と紗羅を結婚するように差し向けたり、紗羅を連れて家を出た海人に怒った陸郎が手を回したせいで、決まっていた職場に就職できなかった海人を、陸郎にバレないように傘下の企業に入社させるなどして、紗羅の為に便宜を図ってきた。


 その過程で、海人が鏡子を探している事も知ったが、だからこそ、紗羅には、鏡子が自分の手許にいる事を話しながら、海人には、彼が鏡子を探している事すら知らない振りをしていた。


 紗羅にとって淳之介は、桂によって思い込まされた自分の夢を叶えてくれた恩人であると共に、もし、桂の呪縛を断ち切れていたならば、他の人生への架け橋さえ準備してくれていた人物でもあった。


 ★


 醜悪な歪みに陶酔が加わる複雑な表情で、庭の方へ顔を向ける淳之介の目に、現実の庭は映っていない事は明白だった。


「…淳之介様」


「ん~?」

 淳之介は、心ここにあらずといった風である。


「私、本当に淳之介様に感謝しています」


 かしこまった紗羅の言葉に、淳之介は夢想を止めて紗羅の方へ首を動かした。紗羅は、うっとりするほど柔らかな、菩薩の様な微笑を浮かべていた。


「ん? な、何や? 改まって?」

淳之介の心臓はドキリと大きな銅鑼を打ち、余韻の鼓動が胸を震わせた。


「美鈴様の事も大好きですわ。可愛くて、優しくて、本当に、どこもかしこも綺麗で。美咲様には申し訳ないですが、自分の娘のように思ってます」


 大切な壊れ物の宝物の様にうっとりと美鈴を評する紗羅に、淳之介は「紗羅ちゃん?」と声をかける。


「美鈴様には、幸せになってほしい。と、本当に、心から思ってますの」


「………そ」


『それなら』と言いかけた淳之介の言葉に被せて、紗羅は続けた。


「ですから。紗敏の事は諦めて欲しいんです」


 先程までの柔らかな表情とはうってかわって、眉を顰め、彼女自身の苦渋の決断を滲ませる。きつく目を瞑り、意を決したように目を開け、スッと立ち上がった。


「淳之介様。お手数ですが、私についてきてくださいませんか?」

 そう言うと、くるりと後ろを向き、仏間の方へと小股で歩を進めた。


 淳之介は理由が解らなかったが、紗羅のただならぬ雰囲気に、畳に手をついて「よっこいしょ」と立ち上がると、大人しく紗羅の後ろに続いた。

 紗羅は、仏壇に向かって右側の障子戸の前まで来ると、後ろを振り返って、唇の前に人差し指を立て「しーっ」と言うと、縦子に指をかけて障子戸を開け、静かに中廊下へ足を踏み入れた。

 仏間の右側の中廊下は、淳之介も足を踏み入れた事が無かった。この先にある部屋は、家主と家族のプライベートな空間であり、他人が入っていい空間ではなかったので、その奥にいるのが紗敏だけだと思っている淳之介は、その紗羅の行動が、布団に入っているだろう紗敏への気遣いだと思っていた。


 紗羅に倣い、音を立てまいと歩けば歩く程、ギシッと廊下のたわむ音が響く。奥に進む程、淳之介の鼻孔をくすぐる生臭い匂いを嗅ぎ取れた。そして、奥座敷の手前にある、現在、紗羅が自室としている座敷を横切り終えようとした時、奥座敷の障子戸がゆっくりと開いた。


 身体を屈めるように、ぬっと出てきたのは、鴨居に頭がつかえそうな大男──弓削滋道であった。背が高いばかりでなく、胸板も厚く、太腿も太いガッシリと逞しい男で、その手には、生臭い匂いの元となる、丸めたティッシュなどのゴミの入ったビニール袋の口が握られていた。

 淳之介は、彼を初めて見たわけではない。海人の葬儀の日にも、今回の四十九日の法要にも彼の姿はあった。だがそれは、淳之介をここまで来るのに運転手を務めた正之が、淳之介が車を降りた後に、長屋門の外にある駐車場のどこに停めるかを案内する誘導員だったり、不審者の侵入を阻む警備員としての役目を担っている者──使用人としての彼で、気に留めるに値しない相手であった。


 淳之介の常識では、こういう家の使用人が住むのは門外の寮か、もしくは長屋門の部屋の一室であった。そして、今の時間が昼間であれば、力仕事などの用事もあるかもしれないが深夜である。

 外で見かける分には、それほどの大きさを感じる事は無かったが、室内だと体の大きさがより強調され、奥にいるのが紗敏だけだと思っていた淳之介が、滋道に対して身構えるのは当然であった。


 滋道は、左目の端に紗羅の姿を見留めると、ハッとなった。

「奥様」

 一言そういうと、慌てて持っていたビニール袋を後ろに隠す。


 淳之介は、紗羅の前に出ようとしたが、平然とした紗羅の様子を見て取ると、滋道を観察した。

 初めは、その身体の大きさや分厚さばかりに目がいったが、視線を落とした先の、彼の履いたジーンズのジッパーを引き破らんばかりの盛り上がりに、目を見開いた。紗羅を前に萎えていくようにも見えるが、それでも、エレメントは、ようよう噛み合っているという具合に左右に引っ張られている。


「紗敏は…もう寝たの?」


「は、はい。…あ、いえ…まだ、おやすみではございませんが…その…」


「…そう。行っていいわ」


 紗羅がそう言うと、滋道はお辞儀をして滋道の部屋やトイレのある台所の方向へ向かった。廊下の角である。滋道の一歩で彼の姿は見えなくなり、彼の姿が消えると、紗羅は、滋道の道具を呆けたように凝視していた淳之介に笑いかけ、

「戻りましょうか」

 と、体を半回転させて、元来た廊下を帰るように促した。

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愛と知らない夜を飛びたい 久浩香 @id1621238

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