第04話 和志

 深夜、楡崎家の運転手の佐藤和志かずしは、別邸へと車を走らせた。

 心中、穏やかではいられない。意識してできる限り前だけを気にしながら、信号にぶつからないルートを走るが、停まると、ついついバックミラーで後部座席を見てしまう。


(何故、こんなことに…)


 暗い車内である。美鈴みれいの身体は孝子たかこ二人夫婦の娘の和子かずこによって綺麗に浄められた後であったし、顎から下が隠れるように毛布をかけて孝子の身体にもたれかかって眠る美鈴は、何事もなかったかのように見える。

 だが、前開きのクリーム色のネグリジェの上から、デートに着ていく為に出していたロングコートを着て、孝子と和子に支えられながら廊下を歩く美鈴は、直視できない程、ふらふらと弱々しく、靴を履いた孝子と和子で、正面玄関の框に座り込んだ美鈴の脇の下から押し上げようとしたが、どうにもバランスが悪く、まして美鈴が自力で立ち上がる事も出来なかったので、仕方なく和志が抱き上げて車まで運んだ。

“男”という一括りの性に、拒否反応を示さないでいてくれたのは、幸いであった。


 ★


 和志のこの日の仕事は、17時迄に美鈴を本社ビル近くにある喫茶店まで送り届ける事だけだった。

 その唯一の仕事も、楡崎本邸から一旦帰って来た孝子が、

「あなた。今、征人様がお見えになってるんですが、お嬢様を送って下さるそうですよ」

 と言い、それすらも無くなった事を知った。


「そうか」


 座椅子の背もたれがたわむ程もたれかかり炬燵に入っていた和志は、体を起こして短く答えると、天板の上に置いていた煙草に火をつけた。

 予定が変わるのは珍しい事でもないが、そういう時は大抵ポケベルが鳴るか、美鈴本人からの電話がかかるものだ、と、ぼんやりと思った。


「え? お父さん、仕事、無くなったの?」

 炬燵布団を背中にかけて寝そべり、ファッション誌を読んでいた和子は、首を捻って父親の方へ顔を向けた。

「ん? ああ、そうみたい…だな」

『それが、どうした?』と、目で話す和志に、本を閉じて座った和子は、

「ね、ね。じゃ、さ。映画館、連れてってよ」

 と、組んだ腕を天板に乗せて、にっこりと笑って強請った。


 ★


 和子は愛に飢えていた。

 両親共に楡崎家に直接仕えていた事と、彼女が美鈴の乳兄弟という事が、彼女のそもそもの飢えの原因だ。


 和子が──美鈴が高校にあがるまで、和子が和志と顔を合わせるのは、誘拐の懸念から、美鈴を学校に送るついでに和子も一緒に乗せていく時と、同じく帰る時であった。和志にとっては仕事中であるので、けじめをつける為、会話などはない。

 夜は夜で、酒の席や会合から治憲を本邸へ送り届けるまでが仕事であるので、その頃には和子はもう寝ていたし、土日祝日の方が忙しいくらいであった。


 孝子は孝子で、和子の相手をするのは、美鈴が稽古事をしている間が主であった。特に、美鈴の母親が亡くなってからは、

「美鈴ちゃんの前で、あんまり『お母さん』って呼ばないでね。それから、ひっついて来るのもダメ。美鈴ちゃんにはお母さんがいないんだから、可哀想でしょ。ね。ごめんね」

 と、和子に言ってきかせていた。


 今でこそ、それが両親の仕事だという事は理解しているが、子供の頃は、

(お父さんも、お母さんも、私より、美鈴ちゃんの方が大事なんだ)

 と、何度も密かに泣いた。特に孝子に対しては、和子よりも美鈴を優先する姿に、そうに違いない、と思っていた。

 もちろん、美鈴が可愛くて優しい良い子だったから、という理由もあるが、もし美鈴に嫌われたら、両親、とりわけ母親にも嫌われると思い、必死で仲良くしてきたのだ。


 中学生の頃には、両親からの愛を諦めて異性に目を向けたが、なんとなくいい感じになったと思っていた男子は、将を射んとすれば先ず馬を射よ、を実践していただけに過ぎなかったし、高校生になって、初めてできた彼氏には、“和子”ではなく“美鈴の友達で、楡崎家に伝手のある和子”を好きなのではないか? と、疑念を持つようになり別れた。

 就職してからも、何度かデートに誘われたが、

(どうせこの男性ひとも美鈴を見れば、私なんてどうでもよくなるに違いない)

 という、考えがもたげ、どうにもOKする気にはなれなかった。

 愛に飢えながらも、愛を信じる事ができなかった。


 転機は成人式だった。

 美鈴達家族が別邸で過ごした事もあるが、両親が和子の為に祝ってくれ、和子はようやく、家族に愛されているのだと感じた。

 それからの和子は、子供の頃に受け損ねた、両親から甘やかされる事に幸せを感じていた。そして、愛を返す先も両親へ対してだった。


 いうなれば、幼稚園児が、

『大きくなったら、パパと結婚する』

 と、同レベルだった。


 それはもちろん、孝子に対してもそうだった。

 しかし、それが何故なのか。どうしてなのかは解らないが、和子は二ヶ月ぐらい前から、孝子に壁を感じていた。自分の母親であるのに、他人よりも他人に感じる。そんな感じだった。美鈴が基と交際つきあいだして、

『あんたは誰か、いい男性ひといないの?』

 と、なにかにつけ聞かれる所為でもないような気がしていた。


 ★


「和子。お父さん、疲れてるんだから、無理言うんじゃありません」


 台所と炬燵のある居間を仕切るガラスの引き戸は、開けっ放したままなので、孝子の耳に会話は筒抜けだ。じゃがいもを茹でる孝子に咎められて、和子は頬を膨らませる。

 和志は、灰皿に吸い殻をこすりつけると、

「ああ、いい、いい。まぁ、こんな日は、滅多にないし…な」

 と、首を傾けて、コキコキと鳴らす。


 こんな日というのは、和志と和子の休みが重なる日である。

 昨日から治憲は東京に居る。帰ってくるのは29日の昼過ぎだ。その間、美鈴の外出以外はこれといった用事は無い。だが、和子はというと、明日からはまたシフトが入っていた。


 いきなり暇をもらっても時間を持て余すばかりだが、寒い中、外に出ずにすむのは有難いと思った。だが、それを娘が願うなら話は別であり、胡坐をかいた膝に手を置いて「よいしょっ」と、立ち上がった。


 ★


 何故この時、美鈴本人に確認を取らなかったのか、と、和志が後悔するのは7時間後である。彼は、顔にこそ出さなかったが、娘と一緒に出掛けられる事が嬉しくて嬉しくてしょうがなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る