第08話 美鈴・中三の正月

 美鈴の母の美咲は、美鈴がランドセルを背負うのを待たずに亡くなった。元日には、薄暗い蔵の中で、けつまづいて転んでしまい、帯を解かれるという、ショッキングな出来事があった事も手伝って、その頃の記憶はあやふや──というよりは、元日から美咲の亡くなった頃の出来事の記憶は、入学式までに、すっからかんに抜け落ちてしまっていた。

 そんな美鈴の世話をかってでようとする縁戚は数多くいたが、当然の事ながら、淳之介は、下心のある彼等を美鈴に近づける事はせず、基本的な世話は今まで通り佐藤孝子に任せ、美咲の欠落を癒す役を檜隈紗羅に頼んだ。紗羅にしても、淳之介に、美咲の主治医へ紗敏の治療の口利きを頼んでいたタイミングであったので、都合が良かった。

 ちなみに、件の蔵は、すぐに取り壊されて、本邸の塀も、蔵のあった場所を押し出す様に造り直された。後に、美鈴が本邸に戻るのに合わせて佐藤一家の家が建つ事になるが、しばらくは更地のまま放置された。


 それは、美鈴が中学三年生の時の正月の事であった。


 昨年の秋に海人が亡くなった。

 それ以前にも、淳之介と共に、誰かのお葬式に出席する事はあったが、それが誰のお葬式だったのかなんて事さえも覚えていない。

 だから、美鈴にとっては、彼女が実感できる本当に親しい相手の死だった。父親を亡くして、これからの重圧を感じている筈の紗敏に気遣ってもらう自分が、なんとも恥ずかしかく、四十九日に行った時には、今度こそ、ちゃんとしようと思ってもいたが、丁度、期末試験とぶつかってしまった。


 海人の死は、檜隈家の事であるので、楡崎家の元日の行事は、例年通りに行われる。高校受験も控えており、難しい話が飛び交うばかりの宴席に混じるには気が重すぎたが、これは楡崎家の後継者の娘としての仕事だから、と諭され、朱色地に菊の柄の振袖を着て本邸に向かった。


 おべんちゃらを言い募られるだけでも、賑やかな場所にいると、余計に悲しくなるもので、どうにも耐え切れずに、早々に表座敷を出て、庭に面した広縁へと出る。例年通りなら、表座敷の更に奥の控室ともいうべき6畳の征人のいるであろう和室に向かうのだが、今年は反対側にある正門玄関に真っ直ぐに向かった。


 本邸にある美鈴の部屋に行くには2つのルートがある。一つは、玄関から外へ出る事なく曲がって、表座敷に沿って廊下を進み、ダイニングの前を通って、二階への階段を昇るルート。もう一つは、一旦、外へ出て、庭を廻って、階段の前にある玄関ドアから家の中に入るルートである。


 元日の日に、一人で家の中を突っ切って歩いていれば、応接室や控室で談笑するおば様方につかまって、淳之介や治憲はるのりへの執り成しだとか、好機とばかりに見合いのセッティングをされたりなど、煩わしい事になるのは目に見えている。

 美鈴は、自分の家にも関わらず、こっそりと玄関を出た。



 玄関を出てドアの方へ廻ろうとした美鈴の背後──広縁の前の庭園の方から征人の声が聞こえて来た。木々に隠れてよく見えないが、どうも誰かを引き留めているようだ。

 踵を返し、庭園の高い木々と塀の間に向かう。


「征人兄様?」


 征人は、淳之介の秘書の川額かわはけ正之の腕を掴み、食い下がるように話しかけていたが、美鈴が声をかけたタイミングで、正之は好機を逃さず征人のゆるんだ手を除けて、これ幸いとばかりに美鈴に会釈をして美鈴の横を抜けて去っていった。


「ちっ」

 征人の舌打ちは、美鈴の耳にも届いた。


 こんな不機嫌そうな征人を美鈴は見た事がなく、心臓がビクッとして、それ以上、近づけないでいた。美鈴が自分を怖がっている事に気づいた征人は、自分が美鈴に晒している顔の怖さに思い至り、慌てて表情を作り替えた。


「美鈴。あけましておめでとう。今年も綺麗だね」


 美鈴の知る、いつもの征人の優しい顔だ。


「あけましておめでとうございます。征人兄様」


 美鈴と征人が会うのは、海人の葬儀以来である。


「川額が何か失礼を?」

 正之が淳之介の秘書である事から、川額と美鈴は、征人と美鈴よりも顔を合わす機会も、会話する機会も格段に多い。海人の葬儀に行く美鈴達の車を運転していたのも彼だ。


「え? あ、いや…大した事じゃないよ。…その、正之…さんは、そう、母方の親戚なんだ」


「あら? そうだったんですか」


「うん、そう、なんだ。僕の母さんの旧姓も川額って言うんだよ」


「まぁ。じゃあ、川額も楡崎家の縁戚だったのですか? まぁ。全く知りませんでした」


「ああ。でも、まぁ、珍しい事じゃないだろう?」


「そうなんですか? ん~。そういえば、私、巌叔父様が、お父様の弟だという事ぐらいしか、知らないわ。お祖父様も、覚える必要は無い、と、仰ってたから、今迄、気にしてませんでした」


 美鈴は、母方の親兄弟という人に会った事が無い。

 それもその筈で、美咲は天涯孤独だった。

 探せば、どこかにいるのかもしれないが、美咲が治憲はるのりの妻になったからといって擦寄ってくるような親戚など、ろくなもんじゃない。


「……あの、さ。美鈴は、あの檜隈家の方々と、親しかったみたいだね」


「え? …ええっ。とても…とても…」


 征人の言葉に、海人が亡くなった事をありありと思い出し、美鈴は思わず涙ぐんで俯いた。傍にいる時、こんな風に悲しむ美鈴を慰めるのは、征人の十八番であった。

 学校で、美鈴の学友達は、彼女を腫れもののように扱う。友達のような学友ならいるが、ざっくばらんに話せる友達らしい友達など一人もいない。美鈴はこれまで、友達との口喧嘩などもした事がない。当然、面と向かっての悪口なども言われた事がない。それが悲しい。でも、そんな事を淳之介に言うわけにはいかない。それを慰めてくれていたのが征人であった。


「…美鈴。ごめん。俺、今日はこれから、母さん達と一緒に、お祖母さんの所に行かなきゃならないんだ。ほら。母さん一人で、葵と剛司の面倒を見るのは流石にキツいみたいだから、さ」


 楡崎葵と楡崎剛二は、征人の妹と弟であり、まだ小学生だ。美鈴も、初詣の後、十貴絵が二人を連れてどこかに向かっているのは知っていたが、それが、征人の祖母の家に行っている事は知らなかった。そんな事は誰も、おくびにも出さなかったからだ。


 一人になりたかった美鈴ではあったが、いざ、征人の方から、これまで当たり前のように、繋いでもらっていた手を離されるのは、なんとも言い難いモヤモヤとした気持ちになった。しかし、祖母の家に行くという、至極真っ当な理由を出されると、言葉でそれを表すのは難しい。

『どうして、今迄、行かなかったの? これまでも、行っていればよかったじゃない』

 と、征人を責める資格も無い。


 この時から、征人とは、なんとなく距離が開き、美鈴と征人が、再び、元の従兄妹同士──征人が、美鈴にとっての『征人兄様』に戻ったのは、美鈴が基と交際し始めてからである。

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