第10話 志保 ① <逃げる~駅のホーム>

 県下随一の進学校の丹生浜にゅうはま北高校には、王子様がいる。


 王子様といえば、それこそ百m先からも解るほどキラキラオーラを振りまいていて、十人が十人振り返るアイドルみたいな美男子を想像するかもしれないが、この王子様は、そんな解りやすい王子様ではない。


 どちらかといえばハンサムの部類には入るが、気を付けて見ないと周囲に埋没する。頭の出来は選抜クラスに席を置いているが、それでもズバ抜けて優秀というわけでも無い。彼個人を見れば、大抵の人は、“品行方正で真面目な好青年”というレッテルを貼るだろう。ランクで言うならば、中の上。良く見積もっても上の下だ。


 そして彼には、彼女がいる。

 学内で、その彼女の名前が誰で、どんな容姿をしているのかを知る者はいないが、彼は、彼が中学生の時に、初めて告白してきた相手にそう言って丁重に断りを入れ、彼の友人達にもそれを公言してはばからない。


 中の上で売約済み。普通に考えれば、けして王子様にはなりようが無いのだが、彼は高校に入学した時から、青田買い物件として王子様認定され、彼女の存在なぞ何のその。その彼女の事を忘れさせようという女子達は、互いに牽制し合いながらモーションをかけている。


 楡崎征人。

 丹生浜市において、NIREZAKIグループ傘下の全ての事業をコントロールする楡崎株式会社の御曹司たる彼をモノにする。それは、ただの色恋だけでなく、将来の安泰を約束していた。つまり、本当の王子様だったのである。


 宮野志保も、そんな王子様に恋をした女子の一人だ。

 ただ、彼女の場合、征人がそんな雲の上の人だと知る前に恋に堕ちた。県外に住んでいた彼女は、父親の転勤と高校入学に合わせて丹生浜市に越して来たばかりで、同じ一年生であってもクラスの違う征人に出会ったのは、春の球技大会で、だった。


 バレーの試合の後、手洗い場で顔を洗う彼女の横にやって来たのが征人であった。征人は蛇口の下に頭を突っ込んで水をかぶった。その雫は、志保の側にも迸り、弾かれた水は志保の体操服にかかる。志保がムッとなるのは当然の事で、文句を言おうと声をかけた時に、志保の目に映ったのは、彼女にとってはまさに“水も滴るいい男”であった。

 思わず見とれてしまった志保に、征人は、

「ああ、ごめん。濡らしちゃったね」

 と、素直に謝ってくれ、その声音も志保の耳を、ずっしりとこそばした。気が付けば志保は、文句を言おうとしていた事などすっかりと忘れ、自分の予備のタオルを征人に差し出していた。


「サンキュー」

 と、さわやかな笑顔を残して去っていく背中を、返されたタオルを両手に持ったまま、ぼ~っと見送っていると、後ろから肩を叩かれた。


 笑顔でいれば、いずれ天女かマリア様と言われるであろう美少女達数名が、眉を吊り上げて般若の面持ちをして、それぞれの手には征人に貸すつもりだったタオルを持って志保を取り囲んだ。


「あんたが、征人の彼女?」

 そう誰何されたのを皮切りに、その質問に志保が否と言う暇もなく、彼女達は、志保を値踏みして、いかに征人が王子様であるか、とか、冴えない志保には不相応であるか、を弁舌し、征人と即刻別れる様に脅してきた。その圧に押されて言い返す事もできない志保を、彼女達は、

「ここじゃ、何だから」

 と、人目のつかない場所へと連れて行こうとした。

 タオルを持った手を口元にあてる志保の手首を掴もうと伸びて来た手を、志保がどう振り切って、この場所から逃げ出す事ができたのかは、志保本人でさえ無我夢中で腕を振って、壁になっていた二人の女子生徒の隙間をかき分けた、としか、説明のしようがない。


 命からがらといえば大袈裟だが、志保はそれぐらいの身の危険を感じていた。

 友達のいる場所まで戻ってからも、彼女達に囲まれた時の事を思い出してはゾクリと背中が震え、帰宅してようやく、その瞬間まで、名前どころか存在すらしらなかった一目惚れした征人の情報を、彼女達は懇切丁寧に教わっていた事に気づいた。

 ただ、既に、彼女がいるって事は、知りたくなかった情報ではあったが。


 征人を意識し始めると、彼女が気が付かなかっただけで、校内には征人の噂が溢れていた。

 そして、征人の事を知れば知る程、志保の心はざわつき、手洗い場で志保を脅して来た美少女軍団が、志保を罵ってきた言葉の数々を思い出して、彼女達が好きなのは、楡崎征人という個人ではなく、仮に征人が、ものすごく性格が悪いブサイクであっても、彼女達にとって、それは全く関係なく、御曹司としての征人をモノにしたいと願っているのだという事が伺い知れた。


(可哀想な征人君…私だったら…)


 志保は、自分だけが、征人のバックボーンを知らない内に征人に恋をしたという事で、自分以上に征人本人の事を好きな女子など、少なくともこの校内にはいない、と思っていた。


 期末試験の範囲を発表される頃、征人が彼女に失恋したという噂が志保の耳に届いた。所詮、聞きかじりなので、真偽については知りようも無かったが、彼女が心変わりしたのだとか、かつて志保の肩を叩いてきた3年生の女子生徒と映画館から出て来たのを目撃しただとか、2年生の女子生徒とファミレスで一緒だったとか、征人が失恋して、チャンスとばかりに女子生徒達が彼をデートに誘い、征人も誘われるままデートしているという事だった。


 そういう噂を聞く度に、志保はチクリとした痛みを覚えていたが、期末試験が終わり、冬休みに入った。


 ★


 終業式の翌日の朝早く、志保は丹生浜市から祖母の家のある曽我郡に向かう駅のホームにいた。それというのも、祖母が入院したのだ。趣味のゲートボールをしている最中、倒れたのだという。三日ほど意識を失っていたが、幸いな事に目を覚まし、今はリハビリと検査の為の入院である。


 祖母の美江は、美江名義の家で、志保の伯父家族と同居していて、伯父の子供は県外の大学に進学しており、美江の家で暮らしているのは、美江と伯父夫婦の3人だ。伯父の妻の恵子は専業主婦をしているので、普段であれば、美江が病院と家を往復して充分に対応できるのだが年末である。

 例年であればお正月には、志保の家族も曽我郡の美江の家に集まり、伯父の子供も帰省する。それを迎え入れる準備を、美江と恵子で整えていた。

 しかし、美江が入院した事で、その支度を恵子一人の手に託された上、お正月前には退院する美江の世話までも恵子一人に押し付けるのは、流石に大変すぎるという事で、志保が派遣される事になったのだ。


 駅のホームで10分ぐらい待っていると、ようやく電車はホームの中に入ってくる。ボストンバッグを担ぎ上げて電車に乗り込みながら、志保は溜息を吐いた。


(あ~あ。カラオケ…行きたかったなぁ…)


期末試験が終わった後、志保は、選抜クラスの男子と交際している友人から、カラオケ店で行うクリスマスパーティーに誘われた。そのパーティーには、征人も誘っているのだといっていたのだ。友人は、志保が征人の事を好きだという事は知らず、志保も、征人目当てだと悟られぬ様に参加する意志を伝えていた。

 球技大会で囲まれた事が、小さなトラウマになっていて、他人に征人を好きだという事を、志保はためらっていた。

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