第17話 無敗の博徒

 それは、楡崎淳之介が尋常小学校に通う前の、楡崎本邸の屋敷を囲う塀が、楡崎家の菩提寺の塀と道一本を隔てて、横並びになっていた頃の事である。


 この頃の淳之介の部屋は、屋敷の主屋の上座敷の北側にある離れ座敷だった。中庭を挟み、東北に両親の起居する奥座敷があった。嫡男であったが、酒を酌み交わす大人の集いの場に子供がうろちょろとするのは目障りであるし、彼の年齢では夜は寝るのが仕事だ。主屋の声が漏れ聞こえない配慮ともいえるが、ようは聞かせたくない声が届かない場所だという事だ。


 その日の淳之介は、未明に目を覚ました。

 普段でもこの時間に起きないでもなかったが、とろとろと開ききらない目をこすりこすり、木偶人形の様に意識朦朧のまま西側にある厠へ行った後には、再び布団の中にもぐりこんで二度寝するというのに、この時は、一気に覚醒した。

 淳之介の部屋から一番近い厠は外であった。部屋から縁側に出て下駄を履き、真っ直ぐ歩いていけば厠がある。


 梅の香混じりの夜風が頬をかすめ、淳之介の頬をぽっと赤く染めた。用を済ませた後、部屋に戻り半纏を纏ってから、再び縁に腰を下ろした。満月よりは幾分欠けたような月ではあったが煌々と庭を照らす。普段から見慣れた景色である筈なのに、色の抜けた庭は知らない世界のようだった。

 淳之介の心に、少年らしい好奇心がむくむくと芽生える。


 厠の西側には生垣のように樹が植わっており、その向こう側は畑だ。淳之介はそっちへ向かった。春菊やカブや白菜が夜に影を落とす。淳之介は目の奥に、畑の北側にある楡の木の後ろから不自然な灯りが漏れている気がした。淳之介は好奇心の赴くまま、楡の木の方へぽてぽてと歩いた。


 小さな荒ら屋があった。場所からして農具を置いておく小屋だったのかもしれない。昼間であれば見つけられなかったか、もしくは近寄る価値の無い場所と無視していただろう。しかし今、その荒ら屋の窓からは蝋燭らしき灯りが漏れている。月明かりだけが頼りであった淳之介は、光に集まる虫の気持ちだった。吸い寄せられる様に小屋に近づいていった。が、楡の木肌に手をついた瞬間、次の一歩を踏み出せなかった。


「ひあッ…ひ、ひぁあ!!」


 小屋の中から声が聞こえた。

 淳之介は、まだ男女の営みの事など何も知らない。だが、本能なのか何なのか、その声が聞いてはいけない恥ずかしい声である事を直感した。身体が硬直した。


「ふぁ…あン…あ! ああっ! も…やめっ… あッ」


 高く低く、女の嬌声だけが淳之介の耳に届いた。女の声は、嫌がり抗いながらも、熱を帯びて悦んでいる。淳之介は茫としながら不意にその声の主が、自分の母の声だと気づいた。


 追いつかない頭を抱え、ふらふらと荒ら屋へ近づいた。薄い壁の側まで近づくとしゃがれた男の声も聞こえてきた。


「ようやく…ようやくだ。ようやっとこの身体をすきにできる。旦那には焦らされたもんだ。焦らされた分、よおく堪能させてもらう。ふはっ。もっと、もっとだ。もっとよがれ、もっと喘げ、もっと声を聞かせろ。俺の男を昂らせろ。今世最後の一発だ」


 男の歓喜の声を聞いた後、淳之介は自分がそれからどうしたのかは覚えていない。だが、夜明け前には自室に戻って布団の中に入っていた。そして、高熱を出し三日三晩唸った。


 ★


 それから一ヶ月も経た頃、淳之介は荒ら屋へと向かった。熱が引いてから後、何度も行こうと思いながらも躊躇していた。様々な疑問が脳に渦巻く。


 あの声は何だったのか?

 女は本当に母だったのか?

 男の正体は誰だ?


 熱の下がった淳之介が家族で食事をする為、主屋の広間の席に座ると、両親共に何の代わりもなく、淳之介が快気した事を喜んでいた。


(父様は知らないのか? いや、父様が母様を男に渡したように言っていた。知らない筈が無い)


 昼間の小屋は、周囲の樹木の中にひっそりとあった。遠目では楡の木が遮り、そこに人の住む小屋があるのかも解らない。楡の木に近づくと、その下で蹲る黒い影があった。


 影も淳之介に気づいた。


 ひょろりとした老人だった。髪は薄くなり残った毛も真っ白だ。骨と皮の間にはもうしわけ程度の肉。目だけは爛爛としていた。老人は手に徳利を持っていて、楡の木にもたれかかり、昼間から呑んでいた。


「この家の坊ちゃんかい?」

 

 老人は座ったまま「そうだ」と答えた淳之介の頭のてっぺんから爪先まで、値踏みでもするように不躾な視線を動かし、にやりと口の両端を吊り上げて笑っていた。淳之介は、自分の存在を馬鹿にされてる様な気分になったが、目に見えない何かで老人にからめとられたようになり、その場に体育座りをした。


 老人はいい具合に酔っていた。


「儂は博徒だ。ただの博徒じゃねーぞ。儂は生まれてこのかた負けた事がない。いや、まあ、勝負そのものには敢えて負ける事もしたが、そうしないと命が危なかった。儂にとって必要な分だけ勝ちゃあ、それでいいのさ。長く放浪して色んな女を抱いて来た。中には孕んじまった女もいただろうが、そんな事はどうでもいい。儂が抱きたいと思った女を娘や女房にもっていた奴が、まんまと儂と賭けをしたってだけの話だ。ここはいい場所だ。儂は終の住処にここを選んだ。お前の親父とも賭けをしたのさ。儂が勝ち、お前の親父は、儂が死ぬまで儂を世話する事になったのさ」


 子供にする話では無いが、老人は、彼の最後の情けで、淳之介の母を抱いた事は言わなかった。淳之介は老人の話を聞くうちに、剛く老人に惹かれた。そして、老人の体から金色に輝く何かが放出されていて、それが薄い膜の様に老人の皮膚を覆っているのが見えた。


 それからは、何度も老人の元を訪れた。もちろん誰にも内緒にした。賭けに負けた代償として父親が差し出したとはいえ、母親を抱いた男と親しくしているなどバレるわけにはいかなかった。幸い、畑仕事を受け持つ奉公人達も楡の木のほうには近寄っては来なかったし、彼の叔母の嫁入りの支度に、屋敷中が手をとられていた事もあった。


 老人も淳之介を気に入っていた。ある日、老人は淳之介を板間に正座させた。自分は敷きっぱなしの布団の上で胡坐をかき、枕元に置いてある細長い麻袋に入った物に手を伸ばした。


「儂は、酒と肴。それから女さえ抱ければ、それで良いって暮らしをしてきたが、賭けをするには、こっちにも担保がいる。儂のそれは刀だ」


 老人はそう言って、麻袋の口を開き、白鞘に収まった刀身をスラリと抜いた。それは、霞かかる山脈を思わせるの目乱れの刃紋には、平地ひらじの空に銀の雲が浮かんでいるようで、魅入られずにはいられない美しさだった。淳之介もその刀身に目を剥いた。


「これは儂の母親の血を吸った刀だが、これのお陰で随分と楽しませてもらった。欲しいと思った女も全て抱いた」


老人が、最後に欲しいと思った女が淳之介の母であった。「全て抱いた」と言った後、老人は、淳之介の母の肌や声を思い出したのか、宙を見つめ、やらしげに唇の端を吊り上げて、にやりとした。


「お前の親父もその刀身を見て惚れ込み、儂の面倒を見ているのも、儂が死んだらこれを手に入れようという腹だろう。淳。お前にこれをくれてやる。お前の親父にむざむざ渡すのもけったくそ悪いからな」


 老人は、白鞘の中に刀身を戻し、麻袋の中にしまうと、淳之介に突き出した。淳之介は、それを手を振るわせながらもどうにか両手で受け取った。ギュッと握った後は、全身が振るえ痺れた。淳之介はとりあえずは部屋の中で隠し持ち、折りをみて幾つかある土蔵の内、しまうだけしまって使われていない物を置いてある土蔵を選び、その奥底に隠した。


 それからしばらくして、老人は死んだ。

 淳之介の父親は、広くもない荒ら屋を解体しながら刀を探したが見つからず、地団太を踏んだ。


 淳之介がその刀の拵えをこさえたのは父親が亡くなった後の事で、その刀には“源清麿”の銘が打ってあった。『江戸三作』と称された刀工である。

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