第03話
「美鈴。好きだ」
そう言った征人は、脱殻の美鈴を、今度は丹念に五感で味わい、美鈴の思考──魂は、音も、匂いも、何も無い、“何故?”で出来たコロニーから、基との思い出が浮かんでは零れるにまかせていた。
黒川基という人間は家族を大事にしていた。とりわけ母親を大切に思っており、NIREZAKIグループに就職した最初のお給料で、母親にエプロンを買って贈ったのだと言った。良い会社に就職できたお陰で、これから母親に楽をさせてあげられる、と。そういうのが好ましい、と思った。
基も美鈴も大人だ。まして、治憲の交際の許可を得たという事は、男女の仲になる事に誰憚る事は無い。しかし基はいつも、夜10時には美鈴を家に送り届けた。『社長に顔向けできないから』と、子供だましのようなキスをして、美鈴専用玄関ドアに続く門扉を開けながら振り返る美鈴に手を振り、ドアまでに如かれた庭の踏み石の三つ目を踏む時には、車のエンジンをかける音がした。大事にされている、と思い込んだ。
★
美鈴は子供の頃、祖父が自分の父親だと思っていた。
美鈴の祖父──楡崎
表向きの理由は、“自分が死ぬ前に、治憲にトップとしてグループを纏め率いていく力を身に着けさせる為”だという事にしているが、実際のところは、前年生まれた美鈴の母の
隠居したからといって、淳之介への来客が無くなり、別邸がまるっきり静かというわけでは無いが、少なくとも、本邸よりも空気は数段良く、淳之介の客が訪れる母屋とは別の現代建築の離れ家を母子の暮らす家として建てており、母屋の喧騒が離れ家まで響く事は無かった。
淳之介の引退によって治憲は今迄以上に忙しくなり、それでも暇を見つけては妻子に会いに別宅を訪問したが、幼い美鈴にとっては、偶に来るおじさんの父より、いつもいる祖父のほうが、余程、父親であった。
美鈴が小学校に上がる前に美咲は亡くなったが、本邸に帰ったところで、治憲が家に帰る事の方が珍しいぐらいであり、結局は、高校にあがるまで離れ家で暮らした。
さて、淳之介には、高橋
その子供が高橋
登の死後、静香は再び本邸での家政婦に復帰した。お金についての不自由はなかったが、彼女はまだまだ若かったし、登仁の為に、少しでも多く貯蓄を残しておきたいとの事だった。美鈴が本邸に戻るのと入れ替わりに、静香達母子は、別邸へ移り住んだ。美鈴の世話も増える本邸の家政婦には孝子が適任だと判断された事もあるが、登仁が男の子であった事が、わざわざ入れ替えさせた理由である。
淳之介が彼女を馘にしなかったのは、自分に長く仕えてくれた登が、最後に愛した家族であったからに他ならない。
★
美鈴が、本邸に帰ってからも治憲が本邸に帰る事は稀で、何の予定も無ければ、土日や祝祭日には別邸を訪れた。美鈴を出迎えるのは大抵が登仁だった。昼食の準備や外からの客人に茶を出す等は静香の仕事だったが、美鈴に対してはそういった形式は関係無かったし、淳之介のちょっとした手伝いをする事で、静香の負担を軽くしているようだった。
美鈴の成人式の日。
振袖姿は正月に見せたばかりだったので、美鈴は女袴を着て別邸を訪問した。その日に限って膝の具合が良くないという淳之介は、登仁に車椅子を押させて、美鈴と庭を散策した。
「登仁くんは、将来、どうするつもりなの?」
不意に美鈴に質問された登仁は驚き、あたふたと慌てた。
そんな登仁に代わって、
「おう、美鈴からも言ってやってくれ。こいつは、な。このおいぼれの世話をしたい、などと、たわけた事をぬかすんじゃ。ほんまに、頭の出来は良いのに、馬鹿もんじゃ」
と、淳之介が答えた。
「あ、いや、えっと…」
顔を赤くして、しどろもどろになる登仁を後目に、
「ふんっ。儂への恩義なぞ、感じんでもええし、田舎で燻っとらんと都会へ行け! 世界へ行け! ゆうて、何度も言い聞かせとるのに、難儀なこっちゃ」
と、剃り上げた頭を掻きながら、やれやれというように、淳之介は呆れる。
美鈴は、登仁は淳之介の為に生きる事はするが、楡崎家の為に生きる事はしないだろう、と、直観した。
★
「美鈴。俺のものだ」
征人の浸食が続く中、美鈴の中を落ちていく基の影法師の中に、困り顔の登仁が紛れ込んだ。
(何故、あんな、つまらない男を『愛している』なんて思っていたんだろう?)
そう思った次の瞬間、美鈴は、自分がそう思った事に驚愕した。現実逃避した先から逃亡すれば、宙ぶらりんの魂はきちがいの肉体に戻るしかなく、それが受ける征人の執拗な愛撫に、
「ぁは…っ」
美鈴の唇から、甘露を含んだ声が漏れた。
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