第22話 破談 ⑤ ~紗羅 ②~

 檜隈 桂は二度結婚した。その日は、桂の2番目の妻の7回忌であった。精進落し後の宴会では、テーブルは片付けられ、紗羅は『チンチロリン』を興ずる残った客の銘々膳の上に酒や肴を運んでいた。


 昨年末に出産して以降、鏡子は十貴絵を育てながら、度々、桂の客人の深夜から朝にかけての接客をさせられていたのだが、その夜の彼女の深夜は『チンチロリン』の勝者に与えられる事になったのだ。


 そもそもは泊まる予定の客達へ出した提案だったが、それを聞いて参加を申し出る客もおり、桂は「それならばもっと面白くしよう」とばかりに、軍需工場に学徒動員された後は市内へと進学し、法要に出席する為に帰省していたが、精進落しの前には帰宅していた海人を呼びつけた。

 海人と鏡子は、交際している事を双方の両親にも内緒にしていたので、海人は帰省しても姿の見えない鏡子の行方が解らないのを、彼女の家を訪ねて確かめる事もできず、長い間、やきもきしていた。

 

 桂は、膝の上でまさぐって火照らせた鏡子の喘ぐ姿を海人に見せつけ、彼女の現状を目の当たりにして驚愕に打ちのめされ、自分の無力に歯噛みする彼の表情を参加者と共有し、笑い者にしたのだ。


小学生の紗羅は、海人を持ち上げながらも、その内心は嘲る声を聞きながら、21時前には解放され、床に着いた。桂が紗羅の部屋を訪れたのは日付変更線が変わる少し前で、桂は背中を向けて寝入っていた紗羅をもてあそんだ。


「そろそろやなぁ」

 と独り言ちて、花へと手を伸ばす。

「ひんっ」

 爪で掻かれた拍子に、紗羅の体は跳ねて目を覚ました。そうした紗羅の耳元に、桂は

「お前はやっぱり、獣の子ぉやなぁ」

 と、唇の端を吊り上げて呟いた。紗羅が反応を示すと、桂はそう言って笑うのはいつもの事だった。


「早い子やと、もうきとるんやろ? 愉しみやなぁ。お前のここは儂で女になるんや」

 

 流れる血のみならず、肉体ごと鬼畜生に堕ちる恐怖を煽る言葉を浴びせられながらも、うなじにかかる息に体温は上がり、こじ開けられた蕾に蜜が溜まると、桂は布団を跳ね上げて、紗羅を仰向けにして二つに折り、そこが見えやすいように足を割るのだが、この日は違った。

 桂は、紗羅の上に覆いかぶさり、顔を見下ろした。


「なあ。紗羅。儂な。海人にならお前を嫁に出してもええか、思たんや。奴にはよお愉しませてもろた。お前も見たやろ。あの広縁に座っとった若い衆や。あの顔。己の女が玩具にされとんのに、何もできんで俯い取った。哀れな男や。どんなにおつむの出来が良くても惨めなもんや。どうや。紗羅。お前、あのくそどうしようも無い男の嫁になるか?」


 紗羅に用意された初めての逃げ場所であった。

 紗羅は初潮を迎える日が怖かった。それがくれば容赦なく桂が自分を犯す事は決定事項であったからだ。桂と自分が親子である事を誰かに訴える事もできなかった。訴えたところで誰からも信じて貰えないというのもあるが、訴える事は自分が今以上の穢れた存在である事を暴露する事だったからだ。桂もそれが解っていて、その秘密を紗羅に漏らしたのだ。桂は、自分が穢れた存在である事を知った紗羅の絶望を犯そうとしていた。


 その桂が、他の男に紗羅を手渡す事を許可した。紗羅にとってそれは、夢にまで見た好機であった。海人が、どこの誰かなんて事は知らなかったし、どんな顔をしているのかも、遠目で見ただけなので、うっすらとした輪郭しか記憶になかったが、畜生道と真っ当な結婚。どちらを選ぶかを聞かれれば、決めるのに迷いは無かった。

「…うち、海人さんいう人のお嫁さんになる」

 紗羅がそういうと、桂はにぃっと楽しそうに笑って「そうか、そうか」と言いながら、紗羅の腕をとり、

「ほな、海人を悦ばす術を教えたらないかんな」

と、紗羅の軽く握った拳の指股に尖らせた舌を差し込んで舐め、桂の核へと誘導した。


 その夜以降、桂は床の中では紗羅に自分を「海人」と呼ばせ、紗羅に男の誘い方や悦ばせ方を教え、紗羅は、いずれ海人の妻になる事だけを心の拠り所にして羞恥に耐えた。そして、ついに初潮を迎えても、桂に破瓜される事は無くて安堵した。


 ★


 仏間を出て、台所まで戻った紗羅は、お盆をテーブルに置いて、両手で口を押さえた。


(私とあの人が…異母兄妹…)


 桂の仕掛けた罠に、紗羅は愕然とした。

 淳之介の憶測は、本当だろうと、紗羅の本能が肯定した。

 思い返せば思い当たる事はあった。桂が死んだのはそれから2年後の事だった。もしかしたら、その時にはもう桂の体は病に侵されていて、男が役に立たなくなっていたのかもしれない。桂は、紗羅が大人になる前に自分の命が尽きる事がわかり、紗羅に逃げ道を与える振りをして、畜生道に落としたのだ。


(…なんてこと…)


 戦後の農地改革が檜隈村で行われたのは、桂が亡くなったすぐ後の事で、田畑は小作人に売り払われ、友雄が受け継いだ筈の檜隈本家の財は、それまで桂におもねっていた分家や他家がわたくしし、友雄は借金まで背負う事になって成す術もなく自殺した。本家の財を掠め取って東京へと出奔した陸郎は、何故か紗羅の父親が、彼の亡くなった兄だと思い込んでおり、紗羅を引き取る事を申し出てくれ、海人の事しか考えられなくなっていた紗羅は、喜んでついて行ったのだ。


 海人の妻となった時は、天にも昇るような気持ちになり、長い空白で大方忘れたと思っていた桂に教わった男性の悦ばせ方も、いつの間にか実践しており、鏡子と似た雰囲気が微塵も無いどころか、桂の容貌が滲む紗羅が身籠るに至る回数分、海人が抱いた事を考えれば、良かったのだろう。


 逃れたつもりの呪縛から、今になって追いつかれても、もう、どうしようもなかったし、

(こんな事なら…)

 と思っても、紗羅の人生において呪文の様に唱えてきた「海人」という名前に縋り、その名前を持つ海人を愛する以外の選択肢が無かった。


 紗羅は激しく鼓動する心拍が元に戻るまで蹲っていたが、テーブルの端につかまち、のろのろと立ち上がって、台所ダイニングキッチンから、奥の間に続く中廊下の先を見た。

 そこは、紗敏の部屋へと続いていた。


 旧檜隈邸に当てはめると、紗敏の部屋は、元々、桂の寝室のあった角部屋で、その横には、小部屋が二つある。寝室の横の小部屋は鏡子が、その横の小部屋には紗羅が寝室にしていた部屋に位置する。。

 足音をたてぬように、ゆっくりと爪先立ちで中廊下を進み、紗敏の部屋の方へ進む。鏡子の使っていた小部屋にあたる部屋で、今は、もしもの時に紗敏の看護をする者が詰める部屋の前まで近づくと、


「………しげ……そこっ……い…ぃ…」


 と、くぐもった、紗敏が熱を帯びた声が聞こえてきた。紗敏が弓削滋道の愛撫に蕩けていた。

 二人がこういう事をしている事を紗羅が知ったのは、半年ぐらい前からである。紗羅が黙認しているのは、紗敏の男が、映像はもちろん生身の女に反応しないからである。女の体に興味を示さない紗敏に、紗羅は頭を抱えたが、二人の関係を知って腑に落ちたのだ。滋道に問い質し、いつから、どのくらいの仲なのかを聞いた紗羅は、滋道は、紗敏を勃たせ、埒を放たせている事も聴き、ここで頭ごなしに引き離すのは得策でない、と判断したのだ。


(獣の…因果?)


 しかし紗羅は、それを知って尚、紗敏の子を抱きたいと思った。今はもう、海人の子だからではなく、自分の子だからであったが。

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