第15話 孝子攻略 ①
佐藤孝子を手折る事など、征人にとっては赤子の首を捻る様なものだった。
楡崎本邸の台所の横には家政婦達の休憩室があり、更にその奥には孝子の仮眠室がある。台所の裏口から出て、美鈴の使う玄関ドアの反対側にある通用口を出てから佐藤家の玄関までは徒歩3分で、本邸と佐藤家を繋ぐ緊急時用の内線電話も有るが、本邸に常駐しなければならない日もある。契約している家政婦協会から、9時から18時迄の家政婦が派遣されてくるが、それ以外の時間になると、孝子が対応するしかないのだ。
基と美鈴の交際を知った日から、征人は、治憲が出張し、更に基と美鈴がデートする日を、密かにリサーチしていた。同じ本社ビル内で働いているのだ。情報を集める事は容易かった。
そしてその日、孝子しかいない本邸を訪ねた。
テレビドアホンに映る征人の顔に、孝子は驚いてはいたが、何の警戒感も持たずに玄関の鍵を開けに走った。
「伯父さん、いる?」
わざとらしく片手に持った社名の入った封筒をちらつかせる。
普通に考えれば入社3年目の征人が、仕事の事で治憲と絡む事など無いと解りそうなものだが、大学在学中に征人が生まれ、学生と楡崎株式会社のアルバイトの二足の草鞋を履き、正式に入社した後は、即戦力として治憲を補佐していた巌の事を知る孝子は、征人がそういうポジションにいても違和感を持つ事は無かった。
孝子は、誰もいる筈は無いのに後ろを振り返った後、再び征人の方を向き直り、
「まぁ…どうしましょう。旦那様は、明後日までお留守なんですよ。…あっ、そうだわ。もしもの時の連絡先でしたら控えておりますので…あ、少々、お待ちくださいませ」
言うが早いか、治憲の宿泊ホテルの電話番号を控えたメモを取りに行こうと、框を上がった孝子の背中に、征人は、
「ああ、孝子さん。いいよ、別に。そんな急ぎってわけじゃないし」
と、呼び止めた。
「え? あ…そうでございますか?」
「ああ、うん。…それより、さ。ちょっと、喉、渇いちゃってんだよね。孝子さんの淹れた、美味しい珈琲を飲みたいんだけど…いいかな?」
娘程の若い青年から、そんな風にねだられては、留守を預かる者としては失格かもしれないが、招き入れる事に躊躇は無かった。征人の事は、彼が子供の頃から知っており、征人と美鈴が仲睦まじい様を、二人は将来一緒になるに違いない、と微笑ましく見守ってきたのだ。
リビングダイニングの椅子にブリーフケースを置き、スーツのジャケットを椅子に引っ掛けた征人はそのまま、孝子のいる台所まで入っていった。
「あら、まぁ。征人様。どうぞ、座ってお待ちくださいませ。すぐ、お淹れいたしますので…」
「…うん。まぁ…ただ待ってるっていうのも退屈だしね」
壁にもたれかかり腕組みをした征人は、何気ない会話をしつつも、じっと孝子を見続けた。作業の合間合間で、それこそ自信の甥っ子に接する様に彼の方へ顔を向けていた孝子だったが、征人の視線が常に自分に向けられているという圧に、徐々に心臓が跳ねていった。年甲斐も無くドキドキしている事に気づき、後はもうコーヒーメーカーが勝手に仕事をしてくれるだけだというのに、征人に見つめられるのが気恥ずかしく、水が珈琲に染め替えられていく過程から目が離せなくなっていた。
「…な、なんですね。美鈴お嬢様も、彼氏がおできになって、今夜はデートなんですって。ですけど、どうせ、いつも通り、10時過ぎにはお戻りになるんですけどね」
動揺が口を軽くする。
孝子にとってはなんという事もない雑談。だが、征人にとっては貴重な情報だった。まだ、三人で晩御飯を一緒に食べるという約束は果たされていないが、基は征人のアドバイス通りに、美鈴と健全に交際しているようだった。
「へぇ…そうなんだ。上手くやってるの? その彼氏と」
「そ、そう…ですねぇ。仲良くなさっておいでのようですよ」
「そっか。…で、孝子さんは?」
「えっ?」
何を聞かれたのかが解らず、声の方へ顔を向けると、征人は、いつの間にかすぐ傍に立っており、孝子は目の前にあるネクタイの不思議から、つい、と上向いた。そこには征人の顔のアップがあり、征人の右腕は腰に回り、左の掌が頬に添えられ、そのまま、声を出す暇も無く唇を塞がれてしまった。
長くキスなどしていない。気が付けば夫の事は娘の父親としてしか見ておらず、恐らく夫も、孝子の事を娘の母親としてしか見ていないだろう。愛していないわけではない。ただ夫婦から両親になっただけの事だ。もしかしたら、他所の家庭よりは早くそうなったかもしれない。だが、どこの家庭でも、二十歳を越えた子供が家にいれば、やがてはそうなってくるものだと思っていた。
唇を塞がれながら、耳やうなじをゆるゆると触れられる。
「ふはっ…ふ…っ……ん」
息が苦しくなり、首を後ろに引いて息を吸う。だが、吐き出す最中に征人の唇が追いかけて来た。
シュルッ
エプロンの紐が解かれ、前掛けのように不安定に揺れる。
孝子の腰から背中へとまわされた征人の手は、スカートのウエストベルトから、スリップごとブラウスを抜き取ると、孝子の背中を這い上りブラジャーのホックを外す。頬から首、腕へと這うもう片方の指は、孝子の手首を掴んで、自分の肩へと運び、スカートをたくし上げ、パンティーを臀溝の真下までずり降ろした。
孝子は、いけない、と思いつつも、燃えカスの中に潜んでいた残り火の女が、ゴクリと生唾を呑む。夫への申し訳なさとはうらはらに、身体が流されたがっていた。
いつの間にか孝子は、台所の壁に背中を預けていた。
「あ……あ……」
せつなく声を漏らす。
征人の指に翻弄される肉体は、もう少しというところで焦らされ、昇りつめられない。征人は、孝子がイく手前──鼻の窪みに向けて目頭と眉根が寄り、後頭部の出っ張りに向けて快感が突き抜けてゆくまであと一歩というところで、急所をいじめるのを止めてしまい、代わりに孝子が思いもよらぬ場所をなぞりはじめ、新たな鈍い性感帯を開発していく。
孝子は、ことその方面には、自分は淡泊なのだと思っていた。
★
壁にもたれかかり、足を投げ出して座り込んだ孝子は、ハイソックスタイプのストッキングの伝線や、左足首に引っ掛かったままのパンティーや、床に落ちたエプロンへと、焦点の合わない視線を漂わす。結局、イかしてもらえぬまま、征人の身体は離れ、おいてけぼりにされたのだ。
リビングダイニングから戻ってきた征人は、新品のシャツに着替えていて、帰り支度を整えていた。作業台に鞄を置き、孝子のスカートの裾からのぞく茂みに、それまで着ていたシャツを広げてかけてやる。
「孝子さん。せめて、下ぐらい隠そうよ。孝子さんらしくないなぁ」
そう言って、コーヒーメーカーからサーバーを抜き取ると、水切りカゴの中に残るカップにコーヒーを注ぐと一気に飲み干し、それから、鞄の持ち手を握ると、にこやかな笑顔で、孝子の横にヤンキー座りをした。
孝子は、『何故、こんな事を』などと、今更、征人に問い詰める事はできなかった。そんな事はもう、どうでも良かった。征人がどんなつもりであれ、孝子のそこはじんじんと疼き、ひくひくと求め続けている。そんな事よりも今の切実な欲望──それを口にすれば、夫を裏切る一声──言いたくても言えない言葉を発したくて、口を小さく開閉させる。
「俺とやりたかった?」
征人が残酷な質問をする。孝子は唇を噛み、新しい涙を目の中にたっぷりと滲ませる。ゆっくりと、だがしっかりと頷いた孝子に、征人は直近の孝子の身体が空く時間を尋ねた。何の為に聞かれているのかも孝子にも解っていて、孝子は、明日の10時過ぎには和志も和子も仕事に出ていて佐藤家におらず、自分は帰っている事をぽそぽそと告げた。
「ふ~ん。そっか。じゃあ、その頃なら訪ねてもいいのかな?」
征人は、明日、美鈴を淳之介の元に送り届ける為、和志が家にいない事は知っていた。懸念は、和子の事だったが、彼女も仕事だという事を聞いて、満足気に頷き、孝子の片方の乳首を指先で摘まんで捏ねた。孝子の身体は跳ね、腰が浮く。
時間は21時まで後10分というところだった。いつから降り出したのか、外は梅雨時の雨がザーザーと降り注いでいた。
征人が楡崎本邸を出ると、孝子は征人の残したシャツを握りしめ、そのシャツ越しに床に額をこすりつけて、堰を切った様にわぁわぁと号泣した。
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