『KATANA』の章

第01話 

 初期のCDの最大収録時間は74分42秒である。

 60分にするべきだ、という主張を退けたのは、世界的指揮者のカラヤンが、

『ベートーヴェンの交響曲第9番が1枚のCDに収まったほうがいい』

 と提言した為だそうだ。


 ベートーヴェン交響曲第9番第4楽章で歌われる『歓喜の歌』。

 楡崎にれざき美鈴みれいは、彼女の自宅のシアタールームで、その不協和音を狂ったように歌わされた。


 ★☆★


 12月29日の朝9時。

 正面玄関から入るように言われた黒川もといが、美鈴の秘書だという高橋登仁のぶひとによって一人で通されたのは、楡崎家本邸の第二応接室だった。

 彼がこの部屋に足を踏み入れたのは二度目である。一度目はおよそ半年前であり、その時は、彼の横に美鈴が座り、NIREZAKIグループ社長の治憲はるのりと面談し、彼の一人娘である彼女との交際を正式に認めて貰う為であった。そして、次にこの部屋へ入室する時は、やはり美鈴と共に──仮に一人で入ったとしても──それは、治憲に彼女との結婚を許してもらう挨拶をする為に入る筈だった。

 

 ★☆★


 基は、こういっては何だが、楡崎家のお嬢様と交際するには役者不足であった。彼女と一般家庭で生まれ育った彼とでは、あまりに住む世界が違い過ぎた。


 クリスマスに基が美鈴をデートに誘った先は、市民ホールで行われるコンサートだった。デートプランに悩む息子の為、彼の母親が用意したそのチケットのプログラムは、第九をメインに据えた様々なクリスマスソングメドレーの合唱コンサートであった。


 前日のランチで、ようやく渡されたパンフレットを見た美鈴は、一瞬、眉を顰めた。

「素敵ね」

 顔を上げ、基に笑いかけた時には滲ませなかったが、不満でしかなかった。

 基に、

「第9のコンサートに行きませんか?」

 と誘われた時、それは当然オーケストラだと思った。合唱コンサートが悪いというのでは無い。最初からそう言われていれば納得した。しかし、この時の美鈴は既に、イヴにはオーケストラを聞きに行くものだ、と、頭が凝り固まってしまっていたのだ。せめて、第四楽章をフルで聞けるならまだしも、プログラムから考えてラストに5分程度の合唱で終わる事が目に見えていた。



 12月24日の昼過ぎ、美鈴の従兄の楡崎征人ゆきとは、大した用もなく楡崎家を訪れ、概ねデートへ行く支度の整っていた美鈴の愚痴をダイニングで聞いていた。


「それは災難だな。でも、まあ、仕方ないんじゃないか? いいじゃん、合唱コンサートでも。パンフには『第九』って書いてあるんだから、黒川はお前を騙したわけじゃないぜ」


 征人と基は、共に新卒採用されてNIREZAKIグループの本社である楡崎株式会社に配属された同期だ。

 征人は、美鈴が見せてきたパンフレットをペラペラと振りながら、

「美鈴にしても、黒川と一緒に過ごせればそれでいいんだろ?」

と、意地悪く言った。


「…そう…だけど…」


そう言いながらも不完全燃焼を抱え、「でも、やっぱり」などとブツブツ独り言ちる美鈴に、

「…ああ、そうだ」

と、征人は隣の椅子の上に置いた自分の鞄の中を漁った。「じゃーん」と言いながら、中からクリーム色の包装紙に包まれた薄いプレゼントを取り出し、テーブルの上を滑らして、美鈴の前に差し出す。


「ほら、クリスマスプレゼントだ」


「え? 何、これ?」


 征人からプレゼントを貰うなど、槍でも降るのではないか? と、思いながら、それを訝しそうに持ち裏表を交互に見る美鈴に、


「まぁまぁ、開けてみろよ。いや、何…ね。本当は、他の奴にやるつもりだったもんだ。だけど、まぁ、今の美鈴にぴったりだぜ、ほら」


急かされ、止めてあるセロハンテープを剥がし包装を解くと、プレゼントの中身はCDであった。それもカラヤン指揮による『ベートーヴェン交響曲第9番』である。

 昨夜、美鈴が聴こうとしたにも関わらず、CD棚の中からどうしても見つけられなかった物だ。


「え? どうして?」


「まだ、デートまで時間はあるんだろ? 聴こうぜ」


 征人は、美鈴が両手で持ったCDをつまみ上げるように奪って立ち上がり、もう片方の手で彼女の手を握って立たせると、勝手知ったる他人の家よろしく、防音のシアタールームの方へ、彼女の肩に手を回して引っ張っていった。


 美鈴も、征人の強引さとタイムリーに過ぎるプレゼントへの不審を覚えるよりも、今、ちゃんとした美鈴の求める第9を聴いておけば、昨日から燻っていた相違が解消され、基とのデートを心から楽しめるだろう、という思いが先走り、征人の思惑など考える暇はなかった。


 ★☆★


「征人様。お帰りでございますか?」


 ダイニングに置いた鞄を取りに来た征人に、楡崎家の家政婦長の佐藤孝子が声をかけた。


 孝子は50歳近い女性で、運転手の夫と共に夫婦で楡崎家で働いている。自宅は、楡崎家の裏口から出た所にあり、勤務体制はフレキシブルである。今日は、美鈴が17時過ぎに基とのデートに出かける予定を聞いていたので、美鈴が帰宅するまでの間の不意の来客に備えた留守番と、帰宅した美鈴のお世話を命じられていた。


 征人は彼女をチラッと見ると、小さなため息を吐いて、椅子を引いて横掛けに座り、片腕をテーブルの上に、もう片方の肘を椅子の背もたれにかけて彼女を見上げた。


「ああ、孝子さん、か。孝子さんは、俺達がシアタールームへ行くのを見てたんだっけ?」


「いえ、私は、征人様と美鈴お嬢様にお茶をお出しした後、自宅の方の用事を片付けに帰っておりました。それから、お屋敷に戻った時には、もう、誰もいらっしゃらなかったので、もう、征人様のお車で、美鈴お嬢様を基様との待ち合わせ場所へお連れしたのだと思っておりました」


 彼女が自分のアリバイを話している最中、征人は手すさびに、テーブルの上に置きっぱなしにされた『第九合唱コンサート』のパンフレットで紙飛行機を折った。


「ああ、そうだったね。それじゃあ、孝子さんは、もうそろそろ美鈴が帰ってくる時間だ、と思ってる頃だ。そりゃあ、今夜はイヴだし、デートに行ったお嬢さんが帰って来なくても全然不思議じゃないけど、そんな事は今迄無かった事だし、何の連絡も無いんじゃ、孝子さんも心配だね」


孝子は征人の両足の間に蹲り、彼のスボンのチャックに手をかけたが、紙飛行機を飛ばした征人は、空いた掌で孝子の額を押し返した。


「ご褒美は、また今度だ。それより、もう少ししたら、一度、美鈴の携帯に電話でも入れてみた方がいいんじゃないか? 繋がらないようなら、旦那にでも相談した方がいい。何もしないでこまねいている訳にはいかないだろ?」


 ★☆★


 見覚えの無い家政婦が、二人分の紅茶を運んできた後、ようやく現れた美鈴は、登仁をドアの横に立たせ、治憲が座るべきソファに座った。美鈴は、紺のタートルネックのワンピースを着ていた。それは、白や淡い色のブラウスを好む美鈴を、新月の夜が包んでいるようであった。化粧も濃くチークのピンクが空々しい。幾分やつれたような美鈴の顔を見た基は、心臓が一回り縮こまったように胸が苦しかった。

 

 約束の時間を過ぎても、待ち合わせ場所に来ない美鈴に電話すると、彼が『もしもし』と言うより先に、第9の合唱が耳をついた。何度も『もしもし』を繰り返すうちに歌は終わり、僅かな無音の中ソプラノより更に高い金切り声──嬌声が響いた。真っ白になった彼の頭に、その後に続く音色は聞こえず、何も考えられなかった。


「美鈴さん! 僕は…」


 重い無言を破りながら基は、対面のソファに座る彼女の足元に跪き、彼女の震える手を包み込むように両手で握りしめた。握りしめる基の身体も、小刻みに震えていた。基は、上手く言葉を繋げる事ができず、掌の中の美鈴の親指に唇を寄せたが、キスするよりも先に、彼女の指は基の手から脱出けだした。


「基さん。さようなら。お元気で」

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