第20話 破談 ③ ~桂~

 紗羅に流れる近親の血は、淳之介の想像よりも遥かに濃い。


 檜隈桂という男は、女と博打に目が無かった。

 先代の後妻に入ったタカの胎から生まれた桂は、彼の父が無くなり、檜隈本家の当主の座を継いだばかりの、嫡子のいない異母兄と誕生と同時に養子縁組をし、異母兄の死と共に9歳で檜隈本家当主となった。実際の家の事は、タカが切り盛りしたが、遠くない将来に備え、攻落の容易い子供のうちにとばかりに、近親者は少なくなく、手懐けて操ろうという下心の贈り物の多さに、かえって誰かに釣られるという事はなかった。

 年頃になり、股間で膨らむ欲望を抱える頃になると、まるで砂糖にたかる蟻のように、タカの若い頃に瓜二つの美貌を兼ね備えた彼に、彼が口説くよりも早く、女達の方からこぞって股を開いてきた。恋心というものではなかったが、彼女達によってもたらされる快楽に溺れた。

 物も人も、桂は欲するモノの全てを安易に手に入れ過ぎていた。

 順風満帆。何の労力も使わず、早々と体だけは大人になった彼であったが、それに終止符を打ったのは祝言であった。

 突如与えられた妻は気位が高く、桂がそれまで抱いた女達のように、淫らに乱れるような事はしなかった。初夜を含めて三日は、彼なりに甲斐甲斐しく慈しんだが、全く協力的でないばかりか、される事が屈辱だと言わんばかりの態度に、彼女とのそれは、跡継ぎを作る目的を果たすだけの行為に成り下がり、義務化したありきたりなセックスに満足する事はなかった。

 桂の妻は石女だった。子供が出来ぬと言えの存亡に関わるが、大地主である檜隈本家の影響力が強すぎる村であるので他所に通わすのは外聞が悪いと考えられた。


 さて、檜隈本家の主屋では、客人が通される部屋は、上り框から入側縁の廊下を渡った先にある下座敷・中座敷・奥座敷の三つに間地切られた表座敷と仏間、それから控室ともいえる次の間に限られていた。内廊下を使う部屋は奥の間と呼ばれ、余程の事が無い限り他人は入れなかった。例外は奥の間にある幾つかの小部屋に住む小間使いだけであり、女中でさえ、朝餉が終わってから夕餉前までの間しか中廊下を歩く事は許されず、それも家の者か小間使いの許可を得なければならなかった。


 規則には理由がある。奥の間の納戸の中には、金庫や高価な着物や装飾品、それから様々な大切な書類の類も置かれていたので、それらの防犯の為や、奥座敷で行われる家長の決定を家族に伝えるのに聞き耳を立てて、いち早く情報を得ようとする間者除け。そして、不埒な行いを目当てとする者を排除する為であった。


 小間使いの仕事は、主人や妻の手伝いや掃除が主な仕事であったが、桂が当主となった後に小間使いにした者は、祝言から1週間後、全員、屋敷から出された。

 理由は、4日目の夜に桂が小間使いの一人を寝所に呼び寄せて、妻に見せつけるように睦んだ所為であったが、その事が、妻からタカに伝わり、桂に妻以外の女に子胤を撒かせない目的でとられた処置であった。


 独身の頃の桂のように、体の相性でそうする事は無かったが、桂以前からそうする風習もあったので、妾は小間使いの体裁をとった。

 妾達は、檜隈家と深く繋がりを持とうとする者達が他所でこさえた娘で従順ではあったが、用意された女という時点で桂の気持ちが動く事は無く、妻と同様に反応が薄く受け身一辺倒な彼女達の事を、子胤を注ぎ込まなければならない義務のある器という意識しか持てなかった。


 桂は、かつての貪り合うようなセックスに飢えていた。汗で、息で、声で、爪で、肌で、肉体を余さず焦がしあうセックスだ。妻や妾達が冷感症であったわけではない。彼女達は彼女達で、昂りを表に出す事ははしたない事だと教えられ、桂に嫌われる事を恐れ、頑なにそれを押し殺していたにすぎないのだが、桂にはそれが解らずに膿んでいった。


 そんな桂を満たしたのが彼の双子の妹の鳩子である。

 彼女は、桂が祝言を上げるよりも先に、桂が生まれなければ本家の跡継ぎになる予定であった分家の、一回り以上も年の離れた男の元へ嫁いだ。容姿が優れているとは言いにくい彼女は、兄の美貌を羨むよりも、自慢の兄として、羨望と尊敬と親愛に溢れた眼を桂へ向け続けた。


 桂は、第一次世界大戦に伴って村と町とを行き来する夫の長期不在に、1歳になる息子を連れて里帰りしてきた鳩子を、それまでの鬱憤を晴らすかのように犯した。その日は、鳩子を休ませる為に可愛い盛りの孫をタカが預かって自身の住む離れへと連れて行き、妾達は、桂の亡くなった妻の穴を埋め、自分こそが桂の子を孕んで妻の座をもぎ取ろうと、その御利益に預る為と、姑で刀自のタカに好印象を持ってもらう為に、離れに付き従ったので、上座敷で休息していた鳩子が一瞬あげたか細い悲鳴は、誰の耳にも届かなかった。

 桂に圧し掛かられた鳩子の心中は複雑であった。美貌の兄は子供の頃からの自慢であり、憧れでもあった。兄の嫁になりたいと、何千、何万回祈ったかも解らない。厳つい夫を受け入れながら目を瞑り、兄の姿を夢想したのも一度や二度ではない。だが、それは禁忌だという事も解っていた。鳩子は、夢が現実になった悦びを、兄妹でありながら一線を越えてしまった恐ろしさと、不貞が夫にばれる怖さで包み、その恐怖を剥ぎ取るように桂にしがみついた。

 桂は、かつての女達の様な大胆さは無いものの、怯えて震えながらも、可愛らしく恥じらいながら桂をせがむ鳩子を可愛く思った。それと同時に、禁忌を犯す背徳感は、彼にかつてない興奮ももたらしたのだった。

 それからの鳩子は、夫が留守にする時は、何がしか理由をつけては本家に戻り、二人の関係は露見する事もなく、鳩子が身籠るまで続いた。それで途切れたのは、鳩子が産褥で亡くなったからである。


 生まれたのは女の子で紗茅さちと名付けられ、鳩子の死後、本家で預かる事となった。タカがそれを望んだからだ。タカは片時も紗茅を離さなかった。学校にも通わせず、お人形のように育てた。桂は、その様に育った紗茅も、彼女が年頃の娘に育った頃を見計らって犯した。


 紗茅は、自分が桂になにをされているのかを知らなかった。子供の頃から、桂はタカの目の前でも紗茅を膝に乗せては、頭を撫でたりしていたので、タカの目の無いところで同じように膝に乗る事が悪い事だとは思わなかった。いつの頃からか、桂の膝に座った時にだけ、たまらなく気持ちよくなって、四六時中、膝に乗せていて欲しいような気持ちになったが、タカが亡くなって三ヶ月もしない内に膨らんだ紗茅の腹を見て、周囲から叱られても、何がいけなかったのかを理解できなかった。

 周囲は、未婚で男を咥え込んだ彼女を、どうしようもないあばずれのレッテルを貼って咎め、桂にさえも冷たい目を向けられてしまい、幼いままの彼女の心は耐え切れず、紗羅を出産した後、しばらくして狂うように亡くなった。


 紗羅が、桂の姪孫てっそんでありながら、小学校に上がる前から桂の小間使いとして働いてたのは、家名に泥を塗った紗茅と馬の骨の子だとされたからである。

 又、鳩子との禁忌以降、スリルに憑りつかれた桂が、分家で新婚の陸郎の妻に手を出すというスリリングを味わわぬわけがなかった。


 奇しくも、淳之介は、漏れ聞こえる紗茅の印象から、無敗の博徒のX遺伝子は受け継いでおらず、紗羅の才能は桂から受け継がれたものだと思っていたので、伯父と姪の近親相姦があった事を結論づけていたが、鳩子は、その才能があっても自分で何かを選択する自由など与えられておらず、紗茅に至ってはその知能さえなかっただけである。

 

 桂が生涯において賭けに負けたというならば、それは妾との間に生まれた友雄を嫡子に選んでしまった事かもしれないが、実は、それさえもタカから呪詛のように聞かされた檜隈家への憎しみと、桂も下らない規則でがんじがらめだった若い時の恨みを晴らす結果を招いただけの事であり、桂の今際の際、淳之介は桂本人から聞いていた。

 タカは、檜隈家を心から憎む一方で、自分の子供や孫を愛してもいたが、桂は自分の死後、何もかもを瓦解させる事を望んだ。


 ★


「桂様の女好きは周囲に知れたものだ。陸郎さんの嫁に手を出してもおかしくはないが、まさか、自分の姪にまで手を出しとるとは思いもよらんかった。その頃、儂は丹生浜に帰っとったから、何があったかは知らんが、戦後、父上の名代で叔母の七回忌に行った時、紗羅ちゃんが女中らの中で働かされよった理由が、紗茅いう姪御さんの醜聞のせいっちゅうのはヒソヒソされとった」


 淳之介は、海人の父親が桂であるという事に確証は無いが、淳之介の知る桂は、関係を持つのに不謹慎とされる女との情事を好んでいたし、わざわざ海人と惚れ合っていた鏡子を妾に囲った事から、海人が桂の子供である事を知った上での執着の嫌がらせだったのではないか、という持論を淡々と述べた。

 蒼褪めた紗羅の手が震えるのを淳之介の手が止めていた。


「なあ、紗羅ちゃん。儂はそれでもええんや。いや、それがええんや。二人が異母兄妹やからこそ、男の紗敏くんが、桂様の才を受け継いで産まれたんやないか、と、儂は思っとる。紗敏くんと美鈴、どっちも同じ才を持っとる者同士やし、間違いなく負けん子が産まれる。婿にとは言わん。美鈴を嫁に出してもええ。儂は、儂の築いたもんを、桂様のようなお人にこそ託したい。それだけなんや」


 桂は道徳心の壊れた人物であったが、それを上回る時流を読む才に長けていた。戦中戦後の混乱時、彼から助言された者達は上手く立ち回れたのだ。淳之介もその一人で、戦後は桂の助言に従って行動し、後のNIREZAKIグループの土台を作ったのだった。

 淳之介の言う“桂様のようなお人”とは、攻め時と引き時を見極められる天性の勘働きを持つ人物、つまり無敗の博徒と同意語である。


「……申し訳」


 紗羅は、どうにか言葉を絞り出し、肩を揺らして淳之介に握られた手から逃れた。もう燗冷めた銚子を盆の上に置き、淳之介に丸めた背を向ける。


「なんでや。二人の子なら、間違いなく次代も安泰や。血の近さかて儂や紗羅ちゃん以外、知る者はおらん。紗敏くんかて、今みたく年に何度も光同会病院に検査入院する手間をかけんでも、儂の家から都度通えばええやろ。美鈴は別嬪さんや。紗敏くんかて、一緒におる内に、自然とええ感じになるんやないか?」


「…」


 紗羅は、何も答えないまま座卓に置かれた物を全て、手早く片付けた。


「酔っていらっしゃるようですね。…お茶をお持ち致しますわ」


と、立ち上がり、足早に盆を持って部屋から出ていった。

 淳之介が仏壇に目を向けると、彼が桂に手向けた線香は天井に靄を作り、尽きかけようとしていた。

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