第12話

 征人の誤算は、美鈴と檜隈紗敏の縁談話がとうに破談となっていて、美鈴が彼の元に嫁ぐどころか、共に檜隈村を訪れて以来、美鈴も紗敏に会っていなかった事を知らなかった事である。


 ★


 征人が美鈴の帯を解いてしまった事を、美鈴は覚えていない。しかし、無意識下にはその時の記憶が残っていて、同じ学校に通う男子生徒からは距離を取っていた。軽度の男性恐怖症だったのかもしれない。

 その日までの征人が、美鈴の退屈しのぎの話し相手を務める事を、淳之介が黙認していたのはそれを克服する為のリハビリのようなものであった。征人は、この頃の美鈴が警戒心なく話せる同年代の唯一人の男だった。


 檜隈海人の葬儀に参列する為、檜隈邸に到着してからの事は、征人にとって悪夢でしかなかった。

 淳之介と美鈴は、檜隈邸の主屋の客間に通されていたようだったが、十貴絵と征人は、招かれざる客だと言わんばかりに、檜隈家に阿る客人達と同様、門外にある建物を宛がわれた。その上、檜隈家に到着すると同時に、美鈴を慰めるという征人の役割を紗敏に奪われ、美鈴が紗敏に惹かれていくのを、指を咥えて見ているしかなかった。


「美鈴ももう高校生だ。年頃の男女が一つの部屋で二人きりになるのが、褒められた状況じゃない事は解るな」


 焼き場にて、美鈴が紗羅と一緒に、具合を悪くした紗敏を気遣っている間、淳之介は征人にチクリと釘を刺した。征人は、お前の役目は終わったのだと言わんばかりの言葉に、愕然としていたので、その後に、淳之介が十貴絵にも何事かを言っていた事は気づかなかった。


 檜隈村から帰って来た後、征人の絶望を置き去りにして、十貴絵は荒れた。ソファの上のクッションを何度も何度もソファにたたきつけた。


「よりにもよって檜隈の男! あの男は、どこまで私たち親子をバカにすれば気が済むの!」


 荒れるだけ荒れると、やがて、クッションに顔を埋めるように、絨毯の上で泣き崩れた。十貴絵の剥き出しの激高に、リビングの扉の前で突っ立っていた征人は、自分の傷心に蓋をして、十貴絵に近づいて横に膝をついて座り、背中を撫でた。


「母さん。泣かないで。俺。次に美鈴に会ったら、自分の気持ちを伝えるよ。美鈴は、あの紗敏っていう奴を好きになったかもしれないけど、俺だって今まで、美鈴だけを見てきたんだ。美鈴だって俺の気持ちを知れば…」


「無駄よ!」


 十貴絵は、泣き腫らした目をギッと征人に向け、背中に回された征人の右手を掃った。


「あの男…。あの男は、最初からそのつもりだったのよ。美鈴に気持ちが無ければ諦めたかもしれない。でも…見たでしょう、あの子のぽーっとした顔。あの顔…あの子の母親にそっくりだわ!」


 征人は、俯いた十貴絵をどう慰めればよいか解らず、絨毯の上についた膝の上に軽く拳をつくった手を乗せて、十貴絵が顔をあげるのを待った。


「フッ…フフッ」


 十貴絵が笑い声を上げた。


「そうよ…ね。なぜ、今まで、気づかなかったのかしら…」


 十貴絵は、征人の握られた手の甲を、それぞれの手で包み込み、手首、前腕、肘、二の腕と、征人の腕の筋肉や太さを確かめるようにたぐり登る。


「征人さんの身体は、もう充分に“男”になっていたのに…」


 辿り着いた肩を強く掴むと、征人のシャツ越しに爪を食い込ませる。


「つッ」


 十貴絵の爪に、征人は顔を険しく顰めた。


「女なんて、どうせ、体が馴染んだ男のものなんだから…」


「…か、あ、さん……痛…い、よ」


「ごめんね。征人…。お母さん、あの時の事があったから、つい、慎重になりすぎていたのね。優しく、優しく、大事に…なんて、こうなる前に、さっさと貴方をけしかけておけば良かった」


 あの時の事とは、征人が美鈴の帯を解いた時の事である。

 征人の罪の濡れ衣を着せられて、美鈴の帯を解いた犯人にされた子供の両親は、楡崎家直系の分家の出であったにも関わらず、親族の集まる席へ顔を出す事を禁じられた後、その被害が及ぶ事を恐れた彼等の係累縁者からの非難を受け、彼等によって楡崎別邸へと連行され、美鈴への慰謝料という形で、多額の負債を背負わされると、その返済に楡崎家の汚れ仕事というべき事案を担う事を約束させられていた。

 連帯保証人となった妻の加藤円花まどか─楡崎の苗字を剥奪する為、加藤家へ夫婦養子に入る手続きを取られた。─は、淳之介の客の接待役から始まり、ハニートラップを仕掛けられるまでに教育された。

 

「…そうね。又、こうならないとも限らない。いえ、美鈴なんかに執着したのが、そもそも間違っていたんだわ。都会の、きちんとしたお嬢様こそ、元々、征人さんには相応しかったのよ。そう。そんな娘さんを征人さんのお嫁さんにする為には…」


 ★


 翌日、十貴絵と征人は、鏡子が入院している病院へと、鏡子に預けている葵と剛司を迎えに向かった。

 十貴絵は、前夜とはうって違って機嫌が良く、すっかりふっきれた様で、道すがら、

「そういえば、征人さん、仰ってたわよね。『交際している人がいるからと、いくら言ってもすり寄って来る女子達が鬱陶しい』って。この際、その子達の誘いに乗ってみなさいな。どうせ、征人さんには相応しくない子達なんでしょう。基本的な事は、お母様や円花さんにお任せするとして、実践で、色々な女の肉体を知るには、うってつけの丁度いい相手だと思うわ」

と、にこやかに征人に提案した。

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