第06話 美鈴の初恋 ~ガラスの十代~ ②

 紗敏は、上がり框から居間に上がり、居間と台所を繋ぐ小部屋に美鈴を連れて来た。

 もう2時間もすれば、この部屋には、台所だけでは置ききれない客に出す通夜振る舞い用の膳や酒が運ばれてくる。

 そういう部屋だ。


 紗敏は、ハンカチを握りしめる美鈴に入口で待ってもらい、折り畳んで壁に立てかけてある机の脚を広げ、横に重ねてある座布団を一つ机の前に敷いた。


「どうぞ」


 ぐすっ、と鼻をすすって、ちょんと座る。

 大好きなおじさん。優しかったおじさん。もう、いない。

 畳の上に不意に置かれていた木製のティッシュボックスから一枚抜き取り、涙と、かむほどでもない鼻水をしゅませて、ゴミ箱に捨てる。

 再び落ち着きを取り戻すと、猛烈に喉が渇いている事に気づいた。


「はい。どうぞ」


 紗敏は、茶托を美鈴の前にことりと置いた。美鈴は、自分に座布団を勧めた後、紗敏が部屋を突っ切ってどこかに行ってしまったのは知っていたが、戻ってきていたのには気づかなかった。ちょうど、ターコイズの空を塗り残したような真昼の月が、不意にそこにあったように、彼はいた。


「あ、ありがとう、ございます」


 美鈴が御礼を言うと、紗敏が薄く笑った。


(誰だろう?)


 美鈴は、湯呑の蓋を取ってコクリと一口飲む。


 儚い人だった。

 そこは、美咲に似ていたかもしれない。

 ただ、始終、すまなそうな顔をしていた彼女と違うのは、柔らかな笑みを浮かべている事だ。

 穏やかな目は、全てを包み込んでくれそうな、ほのかな温かさがあり、蚕の繭に包まれているような気分にさせてくれた。不安定な気持ちが落ち着いてくる。


「ありがとう。父さんの事を、悲しんでくれて」


(父さん?)


 海人と沙羅に子供がいるなんて事は聞いた事が無かった。二人の発するエネルギッシュなものは全く感じられなかった。しかし、言われてみれば、顔は、そこはかとなく海人に似てなくも無い。


 頬を風が掠めるように、美鈴は紗敏を意識した。


 ★


 檜隈家には、二泊した。

 不謹慎で、場違いな感情は、抑え込もうとすればするほど、僅かな隙間から滲み上がってくる。気が付けば、瞳は紗敏を住まわそうとしていた。そして、そういう美鈴の異変に気付かない、淳之介と征人ではなかった。


 帰路、

「美鈴は、紗敏くんの事を気に入ったようだな」

 淳之介の言葉に、美鈴は咄嗟に否定も肯定もできず、ただ俯いた。


 この美鈴の反応が決定的なターニングポイントとなり、征人は、美鈴に一筋である事を止め、それまで遠ざけていた、NIREZAKIグループ重役の息子、楡崎家の御曹司という面も含めて近づいてくる女子達のアプローチに乗っかり、据え膳は遠慮なく食い散らかすようになる。


 ★


海人の葬儀から半年も経た頃、紗羅は楡崎家の別邸へとやって来た。

海人が社長を務めていた会社の穴を埋める、細々こまごまとした事の目途がようやくついたのだそうだ。

一人だった。


応接間の襖を開けて入ってきた美鈴に、紗羅は正座したまま深々を頭を下げた。


「えっ? おばさま。 何? どうしたの」


美鈴は困惑しつつ、紗羅の前に座り、頭を下げる彼女にオロオロした。


「申し訳ございません。美鈴様。どうか、どうか紗敏の事は、お忘れ下さいませ」


意味が解らなかった。

急に忘れろと言われても、何が何だか検討がつかない。


「え? 何? 紗敏さん? どういう事?」


美鈴は、脇息きょうそくにもたれかかる淳之介へと目をやった。頭を上げようとしない紗羅の頭を上げられるとしたら、それは、祖父にしか出来ない事だと思ったからだ。

美鈴に目を向けられ、淳之介は大きくため息を吐いた。


「すまんな、美鈴。紗羅ちゃんは、紗敏くんを檜隈家から出す事はできんそうじゃ」


美鈴は首を傾げた。

それから、はっとして、ようやく何を言われているのかが解り、自然に口が開き、それを掌で隠した。


まだ、始まっていない、灯ったとも言い切れない恋心。

美咲と海人の幻影を重ねただけだったかもしれない、揺れた想い。

それは、いつの間にか、結婚話に飛躍していた。


「美鈴。ええか。お前の婿は、楡崎家に尽くせる男じゃないといかん。楡崎家の為に生き、楡崎だけの事を考える…そんな男じゃないと、お前の婿にはできん。忘れるな。お前が、儂の跡継ぎなんじゃ!」


淳之介の言葉の意味は解らなかったが、美鈴の頬には、いつの間にか涙が伝い落ち、紗敏への揺れ動く感情が、恋であった事に気づいた。

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