第05話 美鈴の初恋 ~ガラスの十代~ ①
年に数回、淳之介の元を訪ねる夫婦がいた。
名前を
彼等が喉から手が出る程欲しい時、大した縁も無いのに金を貸したのが淳之介だった。彼等はそれを元手に、後のいざなぎ景気の波に乗って元手を増やし続け、彼等の一族の断絶した本家が所有していた土地の全て手に入れ、本家の屋敷のあった場所へ、かつてあったがままの屋敷を建て直させるだけの財を蓄えた。
夫婦は、儀礼的なおべっか売りの為ではなく、その時の恩を心から感謝して、都度以上のお礼参りを欠かさなかった。
大人の会話が済むと、淳之介は美鈴を呼びよせた。
美鈴はこの夫婦が好きだった。
先ず、海人であるが、彼は子供と遊ぶのが上手だった。母には体力的に、祖父には
そして紗羅であるが、彼女は、美咲が亡くなった後、和子の母である孝子では埋められない寂しさに寄り添い励ましてくれた。この時期、自身や自身の家庭の事でも忙しい中、足繁く別邸を訪ねてくれた。
海人の、人懐っこい笑顔は、真夏の太陽が煌めくように眩しく、紗羅もまた、その太陽に向かって咲く赤いハイビスカスの花のようだった。
いかにも、お互いを信頼と愛で支え合っている、美鈴にとっての理想の夫婦であった。
その檜隈海人が亡くなった。57歳であった。
美鈴が中学三年生の時である。
死因については美鈴には伏せられたが、未明の突然死であった。
檜隈村へ辿り着く為の道は険しい。かろうじて舗装がされていても、ガードレールも無く、車一台がどうにか通れる道幅の山道を幾つも超えなければならない。何年も、美鈴の送迎が一日の仕事始めであった今の和志に運転をさせるには、ちょっと厳しいと判断し、何度か往復した経験のある淳之介の秘書が運転した。後部座席には、運転席の次に安全とされる秘書の真後ろには淳之介が座り、その横には美鈴と征人、そして、助手席には征人の母の
美鈴が檜隈村へ行くのは、この時が初めてだった。長い長い道のり、美鈴が編集しカーオーディオに入れっぱなしにしてあったカセットテープの曲が再生されて流れていく。
♪
その歌が、それまでどうにか堪えていた美鈴を泣かせた。
さて、美鈴の横の窓際の征人は、“何故、自分が一度も会った事の無い人の葬式に向かっているのか”になど、何の疑念も持たず、美鈴との小旅行に出かけている気分であり、内心、今、この時の状況に浮かれていた。泣いている美鈴を慰めるため、背中をさすったり、肩に手を置いて美鈴の身体に触って「大丈夫」と声をかけても自然だろうか? と、ドキドキしていた。
檜隈家の屋敷は、小高い山のてっぺんにある。山の麓の門を潜ればそこから先が屋敷の敷地内ということになる。麓から斜面に沿って真っすぐに伸びる道沿いには幾つかの家が並ぶ。それは、断絶した本家の代の時分にも建物があったから建てたものであるが、檜隈家の使用人の寮であったり、客人用の宿泊所であったり、海人が面倒を見ていた女の家──別宅でもあった。
それの用途が何かは関係は無い。海人がここに屋敷を再建した時、彼がこだわったのは唯一つ、以前と同じ建物を建てる事だけだった。
山のてっぺんに到着し、屋敷を囲む築地塀の手前にある来客用の駐車場に車を停めて、麓にあるものよりも立派な中門にインターフォンがある。秘書が鳴らしている間に、淳之介は立ち止まる事なく門を潜り、庭を通って玄関をガラリと開けた。広さでいえば六畳ほどの三和土に足を踏み入れると、丁度、沙羅が、淳之介達を出迎える為、上り框と廊下を間仕切る摺りガラス板の襖開き戸を開けたところだった。
「淳之介様。遠路、よくいらして下さいました」
喪の着物の紗羅は、襖戸から一段下の上り框に降りて正座すると、深く頭を下げる。
「うん。紗羅ちゃんも大変だったね」
淳之介は上り框に遠慮なく近づき、頭を下げたままの紗羅に、頭を上げるよう促す声をかけてから、腰をかける。美鈴は、戸惑いながらも淳之介の座る前まで近寄る。
「紗羅おばさ、ま。この…度は…」
一度はひっこんでいた涙だったが、声を出すと滲んでくる。きちんと挨拶しなくては、と焦れば焦るほど、勝手に零れ出て喉をつまらす。紗羅の白目には、赤い筋がまだ残っていたが、瞼を腫らす事もなく、檜隈家の女主人の顔をしていた。だが、美鈴の素直な哀悼に触れ、知れず涙腺が緩みそうになる。
「美鈴様…。………
紗羅は、首を横に振り、襖開き戸の敷居の向こう側の框で正座する彼女の息子に顔を向けた。
「美鈴様をお願い」
紗敏は頷くと、上り框に正座する母親の後ろに降り、美鈴を手招いて、彼女に靴を脱ぐように促した。本来なら、この後、奥の仏間の布団に寝かされた海人との対面という流れだが、その前に美鈴には取り合えず落ち着いて貰おうという事が暗黙の内に決まり、美鈴も、そうして貰う事が有難いと思い、彼の後ろをついていった。
淳之介と紗羅は、紗敏が美鈴に付き添うのを見送ると、互いに顔を合わせて一呼吸した後、紗羅は、玄関を入った所で立ち尽くしたままの十貴絵へと顔を向け、つむじから爪先、心の奥底まで見透かそうとするように見た。上から下まで視線で検分され、十貴絵は思わず怯む。
「紗羅ちゃん。…海人くんはもう、何もかも知っとる頃や。ここで連れて来んかったら、儂が祟られるわ」
淳之介からボソリと言われ、紗羅は、自分がいかに不躾な目で十貴絵を見ていたかに気づいた。十貴絵は、海人と相思相愛でありながら、結ばれる事の叶わなかった恋人の産んだ娘であった。
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