第2話 新学期初日
手の上の食器たちをほっぽって出るほど急ぎのようではないので、シンクまでもっていって、水でゆすぎ、手をタオルで拭いてから、カバンを肩にかけ、玄関のかぎを開ける。
「よお。」
「おう。久しぶりだな。」
適当に挨拶をしたら、さらに雑な返しをされた。
こいつとは、昨日会ったばかりだ。
それなのに本気で久しいと感じていたなら、こいつは、俺よりも高速で動いているのだろう。相対性理論は、とてもロマンチックで切ないものだ。
「てか昨日のライブめっちゃよかったな。」
「ああ。みっちゃんマジ可愛かった。」
みっちゃんこと、古川美波。
俺とこの長田が好きなアイドルグループ『colorful』のセンターだ。顔だけでいえば、アイドルとして武器になるかどうか微妙なラインだが、パフォーマンス力は、頭一つ抜けている。
とこんな具合に、オタクという人種は鑑賞対象を冷静に分析する能力に長けている。
アニメオタクは作画だの世界観設定だのをちまちま分析するし、メイド喫茶オタクはサービスがどうとかああだこうだ言っている。
オタクと言うと、盲目な奴らが思い浮かぶが、あんな人たちはごくわずかで、実際のところ金も時間もつぎ込むだけあって、プロなのだ。
見る目はかなり肥えている。
「みっちゃんもいいけど、やっぱりリナちゃんだろ。マジ天使。RMT。」
「なんだそれ。ベッカム?」
確か、俺もこいつもやっているサッカーゲームで実装されたレジェンド選手の元イングランド代表のベッカムがそんな感じのポジションだったはずだ。
しかし、俺の場合は攻撃的な中盤の選手は、中村俊輔とフリットがいるし、その後ろにはイニエスタやジダンがいるから、正直言ってベッカムは必要ない。
だから俺はそもそもベッカムのポジションなんて知らない。
俺の知ってるイングランドの選手と言えば、ルーニーくらいからだ。ジェネレーションを感じる。
そう考えると、俺が小学生のころからバロンドール争いを続けている天才二人は、相当すごい。
「ちーげーよ。それはRMF。」
なるほど。レフトミッドフィルダーか。
「じゃあなんだ?」
「リナちゃんマジ天使の頭文字。」
また始まった。リナちゃんというのは、北山リナ。『colorful』のメンバーで、俺が苦手な妹系アイドル。
「あーなるほど」
「北山リナってことは、お前の妹だったりしないのか?名前同じだろ?」
「うちの妹は漢字だけどな」
俺は笑いながら返す。俺の妹は璃奈。
時々、るなと読み間違われるらしい。まぁ、似てるしな。
「実は、カタカナでリナってのは芸名で、ホントはお前の妹だったりしないのか?」
「するな」
「マジか」
「マジだ」
「マジだったら合法的に金も払わずに会えるんだけどなー」
長田は、ニヤニヤしながら霞雲を見上げる。
一緒にどこかに出かけると、たまに声をかけられるような端正な顔立ちがもったいないような品のない表情だった。
たとえるならば、全米が熱狂したらしい映画の、連邦警察の女捜査官を捕まえて、アジトで縛り上げて、それを見ながら舌なめずりをしていた下っ端ギャングよりも品がない表情だ。
そこから学校まで、20分ほどの道をしょうもない雑談をしながら、まだ肌寒い春風に吹かれた。
『上石井高校入学式』と書かれた無駄に重厚感のある看板のそばには、一年生から三年生までのクラス発表の掲示板があった。
毎年の光景ながら、毎年ここに立つたびに何か新鮮な感じがする。
新学期になったからなのかなんなのか理由はわからない。
ただ、理由がわからない腹痛や頭痛と同じ様な感じで少し不快で、新鮮だからと言って魚のごとくそれだけで手放しに喜べるような感覚ではない。
遅刻ギリギリとは程遠い時間なのに、俺と長田がついたときには、掲示板の前に誰もいなかった。
二人で同時にのぞき込む。
本来ならば、片方が右からもう片方は左からと言った風に分担して探した方が効率はいいのだろうが、この学校の三年生のクラス分けは、学年七クラスのうちどれかになるといったアトランダムなものではなく、まず文系か理系かで三クラスずつくらいに分けられ、そこから選択科目で分けられるため、一生懸命探すまでもなく、自分でもある程度の予想はついているのだ。
俺も長田も文系で、倫理選択で数学を取っていないから同じクラスのはずだ。で、確か倫理を選択した人と地理を選択した人は、二組だったはずだ。
そんなこんなで、“ドキドキのクラス発表”などということとは全く無縁の俺たちは、そのまま何の感動もなしに、オタク談義を続けながら、新しい教室へと向かった。
北山勇人と名前が書かれたシールが貼ってある窓側の席からは、グラウンドの隣にある公園の桜がよく見えた。
公園とはいっても、テニスコートよりも小さいし、遊具があるわけでもないので、空き地と言った方がいいかもしれない。
それに、誰かが管理しているのも見たことがないので、もしかすると公園と呼ぶべきではないのかもしれない。
その場所には、今からどんどん咲いて満開になるのか、それとももう満開の時は過ぎて散り始めているのかよくわからないような状態の桜の木が枝を伸ばしていた。
「北山くんおはよう。久しぶりだね」
振り向くと、そこにはショートカットの美少女がいた。
「おう志田も久しぶり。今年も同じクラスだったんだな」
「まあ文系で、日本史と世界史以外を選んだらほとんどこのクラスなんだから、去年日本史選択だった私たちはそりゃあ同じクラスになるよ。」
「そうだよなー」
微笑みながら、窓からの陽が志田の横顔に当たる。
やっぱりこいつは美少女だ。
顔もそうだし、スタイルもいい。俺がここまで完璧なアイドルオタクじゃなければ、好きになっていたレベルだ。
いや、俺ではなく志田がアイドルオタクじゃなければ、好きになっていたかもしれない。
志田は、俺や長田のようにクラスの人にまで認知されているようなタイプのオタクではなく、いわゆる隠れオタである。したがって、志田が俺でもビビるくらいのオタクだということを知っているのは、このクラスではというより、この学校では俺と長田くらいしか知らないはずだ。
そんな理由で、俺と長時間話すわけにもいかない志田は、春休みにどんなライブに行ったのか、そのパフォーマンスはどうだったかを俺に一方的にしゃべり、俺も同じようなことを志田に話して、志田はラインで詳しく聞かせてと言い、元居たであろう女子グループの輪に戻っていった。
推しの缶バッジをカバンに着けているからなのか、推しの下敷きを使っているからなのか理由はよくわからないが、友達がほとんどいないにもかかわらず、全校生徒の間でオタクだと認識されている俺とは、校内で長話できないのだろう。
隠れオタクの仮面を取るのは大学生になってからと決めているらしいから、女子高生の世界ではオタクであるというのは隠した方がいい、もしくは隠さないとヤバいようなものなのかもしれない。
自分の机にカバンを置いて、同じクラスになった女子たちに話しかけられるのを笑顔でやんわりと躱すという毎年始業式の日の恒例行事が終わったのか、長田が俺のところに来た。
俺たちはまた、通学路と同じような話をした。どこどこのグループのだれだれが可愛いとか、どこどこのグループのパフォーマンスがすごいとか、そんないつも通りの話をした。
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