第9話 先輩の与太話

 突然部屋の扉を誰かがノックをする。

 今夜の試合を終えてひとっ風呂浴びたばかりのユカは、下着を浴衣の襟元から覗かせたあられもない格好で、リクライニングチェアーに寝そべって涼んでいた所だった。予期せぬ来訪者のお出ましに慌てて浴衣の乱れを整え、何事もなかったかのように平静を装い返事をした。


「ユカちゃんまだ起きてる? あたしだよ、仁科。ちょっと入っていいかい?」


 扉の外では、悪役ヒールの親玉であるクラッシュ仁科が立っている。手には宿舎近くのコンビニで買ってきた、ユカへの土産代わりのレモンサワーとおつまみの入った白いレジ袋を携えて。

 

「は、はい!今開けますね」


 ユカは扉を開けを部屋の中へ入れた。

 ここへ来る前も飲酒していたらしく、仁科の顔はほんのりと赤く息からはアルコールの匂いがする。


「随分とご機嫌ですね」

「まぁな。さっきまでウチら《ゴースト》の三人と、プロレスリングこまちの後援会の方たちで飲んでいたからな」


 普段リングの上で見せるキツめの化粧も、刺々しいコスチュームもない仁科は、何処にでもいるようなごく普通の女性であった。珍しいものと遭遇したかのように、しげしげと見つめるユカをたしなめるように仁科は、二度大きく咳払いをする。


「あれ、悠さんは一緒じゃ……」

「あの人ねぇ、超絶にお酒が弱いのよ。そういう時はウチら後輩の出動ってわけ。飲んだり食ったりするのって楽しいよ?」

「それは本物の悪党ヒールですね」

「うん、それは間違いない。それじゃ飲み直しと行こうじゃないか」


 そういうと仁科は「ちょっと失礼」と縦に手刀を切り合図をすると、ユカの部屋の中へ入っていく。

 スリッパを脱ぎ素足となった彼女の足の爪には、鬼のようなリング上の姿からは似つかわしくない鮮やかな、紅色のペティキュアが差されていたのをユカは見逃さなかった。


 ほらっ、と仁科から手渡された程よく冷えた500ml缶のレモンサワー。

 ユカは指をプルタブに引っ掛け一気に開けると、缶の中に充満していた炭酸ガスが勢いよく放出され、彼女の鼻腔にレモンとアルコールの入り混じった香りがふわりと漂った。


「いいですよね、この香り。わたしここのメーカー大好きなんですよ」

「ほぉ、そりゃ良かった」


 ふたりは軽く缶を合わせ乾杯をすると暫くの間、一言も発する事なく喉を波打たせレモンサワーを淡々と飲み続ける。ぱちぱちと弾ける気泡が喉の中に流れる痛覚と、飲みやすさに反比例したアルコール度数の高さで、二缶目を開けた頃にはすっかり気持ちよくなったユカであった。


 仁科とユカとの間にはおよそ二十年の年齢差がある。

 これまで歩んできた人生もものの考え方も異なるふたりであるが、意外にも話が途切れる事はなかった。それは歳下のユカが常に聞き役へ回っていたのもあるが、彼女らの共通項であるプロレスの話は若干の世代差はあれど概ね共感できるし、それに知識が増えていくのは何よりも楽しかった。プロレスの技術論もそうだが特に業界の裏話や、バックステージの他愛もないは仁科の話術も相まって酒が進んでいく。


「――対抗戦時代あのころはね、トップの選手もそうだけどさ、ウチらも毎回毎回真剣勝負だったなぁ。仮にも団体を背負ってるわけだし、こんなもんかと舐められるのも癪だからもうほとんど喧嘩よ」


 業界の盟主・太平洋女子のリングへ他団体の強者たちが乗り込んで、女子プロレスの真の頂点を目指し死闘や名勝負が日本各地で繰り広げられた、女子プロレス全盛期を代表する事件エピックである《対抗戦時代》。この一大ムーヴメントを経験していないユカにとってはこの時代の話はとても興味深く、その渦中にいた仁科が語る当時の戦模様は、まるで講談のように面白く彼女の胸を熱くさせた。


「ヨソの団体の選手なんて素性も使う技も知らないから、ゴングが鳴ったらすぐに殴って蹴って締めるしかないの。そうしなきゃ逆にこっちがられちゃうからさ」

「さ、殺伐としてますねぇ」

「とはいっても最初だけよ。何度か同じ相手と当たれば、何だかんだ言っても情が芽生えて敵愾心も薄れちゃうから、結局になっちゃうのよね」


 女子プロレス界においてとして不動の地位にあった太平洋女子。

 自分の団体が最高峰である故に、そこにいる選手たちも当然盟主としての誇りを持ち、集客力も練習量も劣る他団体とは横一列でみられる事を良しとせず、「うちは本物、余所はお遊戯会」と徹底的に差別した。それに対し実力のある何人かの他団体の選手たちはこれに反発し、徹底抗戦の構えを取り太平洋女子の巨大な牙城へと挑んだのだ。観る側としてはこれ以上燃えるシチュエーションはないだろう。

 だが、この実力至上主義の闘いで浮き彫りにされたものがあった。それは人気選手たちのだ。

 それまで年功序列でトップの座にふんぞり返り、自分たちに威張り散らしていた先輩選手が、何でもないような他団体の選手に負けた時、仁科たち若手のなかで彼女の格付けは確実に変わった――畏怖から軽蔑の対象へランクダウンしたのだ。彼女が対抗戦で惨敗して以降、どんなにやかましく罵られようがが先に立ってしまい、以前のように真面目に話が聞けなくなってしまった。強さこそが全てのこの世界で自分より格下の後輩に弱みをみせたら最後、というパワーバランスは脆くも崩れ去ってしまう。


「その後、仁科さんの先輩はどうなったんですか?」

「人間性が最悪で尚且つ弱いときたら、もう立場がないじゃない? 三か月も経たないうちに太平洋女子から姿を消したよ。そのとき思ったね、あーやっぱり強くなきゃ下の者は付いていかないよな、って。もちろん強いじゃダメだけど」


 喋りすぎて喉が枯れてきた仁科は、レモンサワーの缶を開け一気に喉の中へ流し入れた。


「自分の所や他団体に強い選手は沢山いたけど、悠さんはやっぱり別格。初見の相手でもさも当たり前のように試合できたし、更に自分が格上であるという事を、リング上の行動で対戦相手にもお客さんにも知らしめてきた凄い人なのよ。あれから二十年近く経つけど未だに、当時余所の団体だった選手から悠さんの悪口聞いた事がないもん」


 悠の事を話す時になると仁科はいつも表情を崩し、きらきらと目を輝かせる。

 環境が変わり齢を幾つも重ねようとも結城悠は、彼女にとっていつまでも《憧れの先輩》なのだ。きっと悠と自分がこの世界にいる限りはこの関係は変わらないだろう。

 だが彼女がであるが故に、仁科の心配は尽きない。ひとしきり悠に関する笑い話をした後、突如真面目な顔になり正直な気持ちをぽつりと漏らした。


「――でも悠さんもいい歳だし、もうこの世界から足を洗ってもいいんじゃないか? って思ってるんだけどね。としては」


 悪役としての嫌味かと一瞬思ったユカだったが、もの悲し気な仁科の表情を見て本気で悠の事を気に掛けているのだと悟った。


「膝や腰を壊してから全盛期に見せていた、スピーディーな動きも奇麗なブリッジが出来なくなって絶対本人は納得いってないと思うよ。だけど結城悠という存在がファンの生き甲斐である事を分かっているから、動きが鈍くなるリスクを承知でどんな攻撃にも耐え得る肉の鎧を付け、受身セール中心のファイトスタイルにチェンジしてでも、彼女たちの前にヒーローとして立ち続けるの」

 

 今や子持ちの熟女となった、かつて十代ティーンだったファンの夢を壊さないために、今なお老体に鞭を打ち彼女たちの待つリングへ上がり続ける、悠の涙ぐましい影の努力に感動したユカは、無意識に涙粒をこぼしていた。

 

「すみません……仁科さんの話に感動してしまって、つい」

「ユカちゃん、やっぱあんたはいい子だね。こまちの最終興行ラストツアーに招かれたのも何かのご縁だよきっと。今後もし悠さんとサシで勝負する時があればその時は――ひと思いにしてあげて頂戴。これは偉大すぎる姉貴に対して、結局引導を渡す事が出来なかったダメな妹分からの切実なお願いよ」


 リング上では傍若無人に暴れまくる悪役ヒールで、プロレスリングこまちの座長・悠に次ぐキャリアと年齢故に、若い参戦選手からは敬遠されがちな自分に嫌な顔ひとつせず、常に敬意をもって接してくれる若きスター・小野坂ユカ。プロレスに対し熱い情熱をもつ彼女が愛おしくてしょうがない仁科は、酩酊して意識が飛んでしまうその前に本音をぶちまけたのだろう。

 まさかのに一瞬驚いたユカであったが、それだけ大先輩に自分が高く評価されているのだと思うと軽々しく返事をする事もできない。しばらく下を向いて仁科の想いや自分の想いを散々巡らせた後、


「悠さんの介錯――しかとお受け致しました。単純に《この世界の先輩》《レジェンド》から勝利したいというわたし個人の気持ちだけでなく、仁科さんらの想いも一緒に背負って闘いたいと思います」


 と、堂々と返答をするのであった。

 普通であれば「自分ごときが、そんなおこがましい事を」と怖気付いてしまうか、酒の席での戯言として無視してしまいがちだが、に走る事をせず迷いなき瞳でこちらを見る頼もしいユカの姿に、仁科は顔を綻ばせとても嬉しそうに何度も力強く首を縦に振った。

 

 彼女は白いレジ袋に残っていた、最後のレモンサワーの缶を取り出す。


「あちゃ~お終いかよ、まぁいいや。それじゃあユカちゃん、もう一度乾杯しようか?」


 上機嫌な仁科は口からアルコールの匂いを漂わせ、もう何度目になったか分からない乾杯をせがんだ。ちょっとだけ困った表情かおをみせたユカだったが、同じく気持ちよくなっている彼女にこれを断る理由はない。

 ふたりは手にしている缶を同時に前へ突き出す。


「仁科さんのご健康と」

「ユカちゃんの今後の活躍を願って、乾杯!」


 こつん、とレモンサワーの缶をぶつける音が宿の小さな部屋に響く――時計は既に午前零時を廻っていた。

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