第6話 よくがんばりました
大きく乾いた音が
ユカが腕を大きく振りかぶり、沙耶の横っ面を張ったのだ。
その衝撃音から察するに誰もが、床に伏した彼女の哀れな姿を想像したに違いない。
だが実際は違った。
強烈な張り手を受けた顔面は、横方向へ流れたがしっかりと踏み止まっていた。赤くなった頬にて掌を当てる事なく、沙耶はぐっと宿敵を睨みつける。
ユカが彼女の手を取り、一番近くにあるコーナーポストへ向けて振り投げた。加速が付いた身体は、意思とは無関係に
がしゃん!とロープを留める金具が音を立て、沙耶がコーナーマットへ背を付けたのを確認したユカは手を叩き、観客たちにリズムを刻むよう求める。だがすっかり嫌われてしまった彼女の要求に応じる者はなく、ぱらぱらと間の抜けた手拍子が鳴る中、「しょうがないな」とため息を付いた後一気に駆け出した。
駆けるスピードから察するに、串刺しのドロップキックを狙っているようだ。
ユカは発射準備に入ろうと、マットを踏み込み跳躍しようとしたその時、自分の顔に向かって迫り来るものを察知した。沙耶が身を捩り、半身の体勢で蹴りを繰り出したのだ。
このまま突っ込んでは確実に顔面へヒットしダメージを被る。咄嗟に反応したユカは急停止しバック転で彼女から大きく距離を取った。
しかしこれで沙耶の追撃から、逃れられた訳ではなかった。
ユカとの間に距離を取る事ができた沙耶は、コーナーマットに背を付けたままロープを握り急いで最上段まで登る。眼下に映るユカを
沙耶は立ち上がり様に、ぐったりとキャンバスに這うユカを睨み付ける。
ネームバリューや経験値の差だの「言い訳」なんて考えてはいられない。今成すべき事は目の前の敵である小野坂ユカを倒す事、そして相手の脳裏と身体へ、姫井沙耶という存在をしっかり刻み付ける事だ。もう退路は絶ち切った。
観客たちはリングの上で展開される、文字通りの《修羅場》に口を閉じるのも忘れ、呆けたようにふたりの動きを眼で追った。各々が贔屓の選手へ声援を送ろうにも、それが一瞬躊躇われるような異常な空間。
安くはない四千円を払って日頃のストレス解消や、明日への活力を養うために観に行っていた、田舎回りの大衆演劇のような普段のこまちの試合とは違う、選手が己の全てを曝け出して闘う本物のプロレスがそこにはあった。
叫び声と共に鍛え上げた肉や骨が唸りをあげ、眼前の敵へと迷いなく真っ直ぐに向かっていく。
狙った部位へ肉の塊がヒットすると同時に、鈍くて重い音が静まり返った会場に響き渡り、観るものにその衝撃を擬似体験させるが、闘っている彼女たちは時折うっ、と喘ぐものの何食わぬ顔で、相手の闘志が
突然、誰かが沙耶の名を叫んだ。
息も詰まりそうな静寂が続く中で、肚の底から湧き上がる熱い感情を抑えきれなくなり、遂に声援となって喉から吐き出されたのだ。
ひとつの声援が突破口となり、観客たちは自分もとばかりに思いの丈を声に乗せ、リングへ向かって次々に投げ掛ける――会場に熱気が戻ってきた。
沙耶と打撃戦を繰り広げているユカは、再び沸いた様々な声援と僅かばかりのブーイングを背中越しに浴びて確かな手応えを感じた。観客たちを己の掌の上で躍らせる事が出来たからだ。こうなれば驚かせるのも怒らせるのも自由自在だ。勿論観客だけでなく闘っている沙耶に対しても。
肘打ちの
差し込むような鋭い痛みに前屈みになるユカへ、畳みかけるように沙耶が彼女の頭を脇に挟み、自ら後方へ大きく跳躍して相手共々マットへ倒れた。頭が固定され逃げられないユカは、激しく顔面を床へ打ち付けられる――大技DDTが炸裂した。
ダメージを受け俯せに寝たままで、動かないユカを反転させマットへ背中を付けると沙耶は、レフェリーにフォールカウントを要請する。
レフェリーはユカの肩が、床に付いているのを確認すると、右腕を高く振りかぶりカウントを開始した。ワン、ツーと叫びながら激しくマットを叩く衝撃音が会場中に響き渡る。
だがこの程度の攻撃では、ユカからカウントスリーを奪う事はできない。三つ目のフォールカウントを叩く直前、叫び声と共に彼女は肩を上げた。切羽詰まったような必死の形相ではあるが、実のところまだまだ気持ちに余裕があった。この演技にまんまと騙された沙耶は、このまま攻め続ければイケる!と勘違いし大技を連発させる事に決めた。
青息吐息のふりをしたユカに対し、自分の出来る限りの技を休みなく仕掛ける沙耶。投げ技に落下技、それに絞め技など次々と自分の技が決まると同時に、彼女を応援している観客たちから歓声が湧き上がる。だがユカが必ずフォールを返し、ロープエスケープしてあと一歩の所で踏み留まるので、落胆の声も同じように上がった。
最初は勝利の二文字がちらついていた沙耶であったが、何度もニアフォールが続くので次第に自分の攻撃に疑問を持つようになった。いくら攻めても全くギブアップやスリーカウントを奪えない現状に、常に己を支えていた自信が徐々に揺らいでいく。
――どうして勝てないのよ? 相手はあんな辛そうな
絶対の自信を持っていたはずの、己の
冷や汗を流しながらも、何とか態勢を取り繕うとする沙耶の姿に、ユカは自分の勝利を確信した。
もう、これしかない。
ユカの両腕を掴んだ沙耶は、自分の首を彼女の下へ潜らせると、掬い上げるように相手の身体を浮かせ投げてみせた。
師匠・結城悠直伝の
だがしかし――沙耶の必死の想いを無下にするかのように、ユカは難なくフォールを返す。
何度も大きな技を喰らい、ダメージが蓄積しているはずなのに、それでも何食わぬ顔で沙耶の前に立ちはだかるその姿は、思わず口から溢した言葉の通り《小っこい怪物》と呼ぶに相応しかった。
ありったけの攻撃が全て水泡と化し、疲れ果てて虚ろな眼をする沙耶に引導を渡すべく、ユカが彼女に手を掛けた。劣勢だったのが嘘だったような強い力に、精根果てた沙耶に抗う術は残されていなかった。
頭を沙耶の腕の中に入れ、胴に自分の腕を回し固定するとユカは、一気に後方へブリッジをした。東都女子で幾多の敵を葬ってきた必殺技、
瞬時に真っ逆さまに頭部から落とされ、患部に圧迫する衝撃に耐えられなかった沙耶は、キャンバスから直に伝わるフォールカウントを聞いたまま、次第に意識がフェードアウトしていった。
――――――――――――
沙耶が次に目を開けた時、最初に映ったのは師匠である悠の顔だった。
ここは舞台裏にある用具倉庫を利用した選手控室。技を喰らい気絶した沙耶は、セコンドの仁科によってここへ運び込まれたのだ。
師匠の前で恥ずかしい姿は見せられないと、頭から下に重く伸し掛かるダメージを堪え、ベッド代わりの体操用マットから起き上がろうとするが、悠は無理をするなと肩を押さえて再び寝かすと髪を撫で、彼女を優しく労った。
「――よく頑張ったね」
悠からの思いがけないひと言に、沙耶はえっ? と驚いた。いつもなら幾つも「悪い点」を並べダメ出しを延々と喰らうのだが、今日に限って労いの言葉を頂けるだなんて、正直思ってもみなかった。
「何よ、納得してない表情をして? 確かに甘い部分はあるけど、自分ひとりで試行錯誤しながら試合してる所なんて成長したなぁ、ってホント思うよ」
マットに寝転がり、悠に優しく頭を撫でられながら寸評を聞かされ、沙耶は試合で負った打ち身傷の疼きよりも、恥ずかしさで身体がかぁっと熱くなる。
「沙耶の持っている力を、目一杯引っ張り出してくれたユカちゃんには感謝しなきゃね」
「……はい」
沙耶が返事をするのに暫しの間があった。自分でも対戦相手のユカに完全に乗せられていた事が分かっていたからだ。それが悔しくて悔しくて堪らなかった。だがもし、今みたいな試合を別の相手でできるか? と問われれば「できない」と即答するだろう。
ユカの底なしの実力を、嫌になるほど味わったからだ。これは認めざるを得ない事実であった。
人気団体のエース格という肩書が鼻に付き、最初はユカが気に入らなかった沙耶であったが、実際にリング上で意地をぶつけ身体を痛め付け合う事で、それまで抱いていた軽い嫌悪感も何処かへ吹き飛んでしまい、相手に対する尊敬と健全な対抗心が彼女の中で芽生えたのだ。
この時沙耶の心の中で、「目標とするレスラー」として直接の師匠である悠の次に、新たに小野坂ユカの名が書き加えられた――
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