第12話 閃きと決断

 リングと客席から離れた場所にある、備品庫を利用した簡素な控室では、微かに聞こえる観客たちの一喜一憂する声を耳にしながら、頭を垂れ精神を集中させる悠の姿があった。


「――悠さん、ちょっといいですか?」


 控室の真ん中を仕切る衝立の隙間から、次の試合で悠と対戦する仁科が声を掛けた。自分の精神宇宙インナースペースへ没頭する悠だったが、聞き馴染みのある声で一気に現実へと連れ戻される。

 すんません、と小さな声で謝ると仁科は間仕切りをずらし、悠の隣へパイプ椅子を置き座った。


「凄そうですね、あっちの方は」


 リラックスした調子でぽつりと呟く仁科。もちろん現在行われているユカとMADOKAの試合の事である。だが彼女の独り言に悠は無反応、眉ひとつ動かない。あれ、気を悪くしたかな?と一瞬後悔したが、変化のない表情から察するにそうでもなさそうだ。

 沈黙の時間が淡々と過ぎていく。笑うにしろ怒るにしろ全くレスポンスが返ってこないのが一番堪える。

 この重苦しくなった控室の空気を一変させようと、当たり障りのない世間話を用意していた仁科へ突然、それまで黙っていた悠が口を開いた。


「――今日でみさちゃんと当たるの、何度目かしら?」


 美沙みさと、天下御免の大悪党・クラッシュ仁科を下の名で呼ぶ選手は、自分より先輩か仲の良い同期くらいだ。この極悪筋肉女に不似合いな本名は自分よりキャリアが下の選手たちは知らないし、仮に知っていても恐れ多くて軽々しく名前を口にする事などできやしない。悠から下の名で呼ばれる度に彼女の精神こころは、苦しかったが夢見ていられた新人時代の頃の自分へ戻ってしまう。


「五十三度目です、悠さん」

「それで何回私に勝った?」

「えぇっと……十回でしたかね。殆ど負けか無効試合ノーコンテストばかりでよく覚えてませんけど」

「私がレフェリー殴って、反則負け取られたのは覚えてるんだけどねー」


 昔話がきっかけになり、重苦しかった控室の空気も和らいだ。あれだけ他者を一切近付けさせない強烈なオーラを纏っていた悠も、すっかり角が取れリラックスした笑顔を見せた。


「――若くて才能あるもんね、あのふたり」


 控室ので現在行われている大熱戦について、悠はようやく語りだした。大御所ぶって無関心を装っていてもやはり、若い選手たちのプロレスは気になっている様子だ。


「負けたくないですよね、悠さん」

「そりゃあそうよ。若いコのテクニックやスピードには太刀打ち出来ないけど、お客さんの心を掴むプロレスやらせたら誰にだって負けないわよ、ウチら太平洋女子OGは」


 よかった、いつもの悠さんだ――頬を紅潮させ、盛んに熱弁をふるうの姿に安堵する仁科であったが、それと同時にご機嫌を取り続け、限界ギリギリの悠の肉体を酷使させ、現役生活を無理に伸ばしてきた己の不甲斐なさも感じる。

 こまち設立以前から、そして此処にきて五年近くの歳月をかけて築きあげてきた《善=結城悠》と《悪=仁科》との闘いの集大成を今夜ここで見せてやろう――仁科はそう心に誓った。


 おおおーっ!

 再度客席のある大広場ホールの方から歓声が控室まで押し寄せてくる。今度のは部屋の扉が閉まっていても明瞭に聞こえた。一体彼女たちは何をしているのだろう?と気になった悠たちは、思わず椅子から腰を浮かせた。



 ふたりの女はマットに倒れ、互いに脚を絡ませたまま動かない。双方とも足首を自分の脇に挟み、足関節技の基本であるアキレス腱固めの体勢に入っていた。

 MADOKAもユカも、厳しい表情で身を捩って相手の足首を捻りギブアップを迫るが、この時点ではまだ激痛ポイントを探りあっている状況で、完全に技が極っているわけではなかった。

 膠着してからものの数秒も経たない内に、MADOKAの表情が突如ぐにゃりと歪み、そして次の瞬間には

 あああああーっ!

と、言葉にならない声で大絶叫した。ユカが彼女のアキレス腱のツボに負荷を加えたのだ。MADOKAは身体を駆け回る痛みから逃れようと、絡み付くユカの大腿部を何度も力一杯殴り蹴り、必死の思いで関節地獄から抜け出す事に成功する。


 コーナーマットに寄りかかって、アキレス腱固めで痛めた足首を左右に回し、状態を確認するMADOKA。幸い大事には至っていないようだ。


 ――やっぱ侮れないわ、ユカっちは。こっちが有利だと思って、関節技勝負に出てみたけど逆に手玉に取られる始末だし。このまま埒が明かないのなら……


 敵は悩むMADOKAを待っていてはくれない。既に彼女のいるコーナーへ向かい、ユカが追撃のために全速力で駆けてくる。MADOKAは瞬きひとつできるかできないかの、ほんの僅かの間に決断を下さなければならない。

 右前腕を振りかざしユカが飛び掛かってきた。跳躍で更に加速を付けた前腕に、全体重を乗せて顔へ圧し当てるようだ。このままいけば前方からの攻撃と、後ろに逃げ場のないコーナーマットに身体は挟まれ、自身が大ダメージを被るのは必至である。

 どぉん!と、重量物が激突する鈍い音が会場中に響き渡る。ユカの攻撃が決まりMADOKAの顔は無惨にも潰された――誰もがそう思った。

 だが今、マットに倒れているのはユカの方だ。一体何が起こったのだろうか?

 実はユカの攻撃をすれすれで回避したMADOKAは、コーナーマットへ思いっきり顔をぶつけよろよろと後退りする彼女の背後へ素早く回り、間を置かずにスープレックスで一気に投げ捨てたのだった。何という瞬発力であろうか!

 ダメージを軽減させようと左右に頭を振りながら上体を起こそうとするユカに対し、切れ味鋭いサッカーボールキックを彼女の胸へ叩き込みもう一度ダウンさせるや、MADOKAは上半身へ覆い被さり体固めの体勢に入る。

 レフェリーが腕を大きく振りかぶり、キャンバスへ硬い掌を叩き付ける。しかし――カウント2でユカは肩をマットから浮かせた。

 まだまだ攻撃の手を緩めたくないMADOKAは、朦朧とするユカの髪の毛を強引に掴むと無理矢理起立させる。そして弓矢を引くように固めた拳を、大きく反らした後強烈なパンチを彼女の横っ面へヒットさせた。力が流れる方向へユカの身体が揺らぐが、しっかりと髪を掴まれているので、容易にマットへ倒れる事を許さない。

 一発、もう一発と容赦なくユカの童顔へ撃ち込まれていく拳骨ナックル――あまりの残酷さに、単発的にブーイングが飛ぶものの多くの観客は声を上げるのも忘れ、一部始終を息を凝らしじっと見守っている。

 しかしいくら殴られようと、塞ぎかかったユカの瞳には未だ闘志は灯ったまま。こんな事で屈してなるものか、という意思表示だ。倒れる事も許されず、片膝をマットへ付けながらも反撃の機会チャンスをじっと待つユカ。

 MADOKAが放った何度目かのパンチ。タイミングを窺っていたユカは、狙い済ましたかのように彼女の腕を取り、強引に体重を掛け脇固めへと持っていった!

 肘の筋が伸ばされ肩から腕にかけて耐え難い激痛が走るMADOKAは、この嫌な体勢から逃れようと前転をする。こうすればねじ曲げられた筋が元の位置へ戻るからだ。だがユカは彼女の次の行動を見越していたのか、身体が回転し終える前に腕で両脚を押さえ込み身体をエビ状態に固めてしまう。MADOKAの肩がマットに密着しているのを確認したレフェリーは、早速フォールカウントを開始する。

 耳元で聞こえるカウントに慌てたMADOKAは、こんな間抜けなで試合を終わらせたくないと、全身の筋力を駆使して、急いで飛び起きると両の拳を構え前を見た。

 そこには荒れた呼吸でロープにぐったりと寄りかかり、殴打で腫れた頬を掌で押さえ睨みつける宿敵・ユカの姿があった。

 どんな攻撃にも恐れず、怯まずに立ち向かう彼女の姿勢に、どうしてこのミニマムな体格で東都女子のトップの座に君臨出来たのかMADOKAはやっと理解した。


 それは小野坂ユカが、他の誰よりも強いからだ。


 こんな単純な事を見落としていたなんて――MADOKAは反省した。

 足が自然と前へ向かって伸びていく。ゆっくりだった足取りも次第に速度を上げる。目の前にいる宿敵を倒す目処が付いたからだ。

 ユカから勝利を奪いたいという、きわめて純粋な欲望が、肚の奥底からMADOKAを叫ばせる。《妖精》など甘っちょろい看板はとうに捨てた、わたしは血に飢えた一匹の獣なのだ――そう云わんばかりだ。


 ユカとMADOKAとの距離はもう目と鼻の先まで接近していた。



 

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