第23話 The Last Day Part 1

 午前10時20分――

 事務所兼道場から車で、30分ほど走った場所にある大きな市民病院に、ひとりの老紳士が荷物の入った紙袋を両手にぶら下げて入っていった。

 地域で最大の規模を誇るこの病院は、いつも通院患者で混雑しており、診療内科・外科共に今日の診察予約をしている多くの者たちが、自分の順番が来るのを今か今かと待ちわびている。


「おーい大澤さん、おはよう!」

「あ、どうも。今日も診察ですか?お互い大変ですね」


 彼は知り合いの患者と、顔を合わせると世間話を始めた。ずっと同じ場所に通い続けていれば自然と、顔見知りのひとりやふたりできるものだ。

 今朝の朝刊の記事をネタに、ひとしきり雑談をするふたり。周りがどんなに騒がしかろうがお構いなし、互いに喋りたい話をどんどん吐き出していく。案外こんな他愛もない事が日頃のストレスの捌け口となり、メンタルヘルスを健全に保っているのかもしれない。一般人より気苦労が多い、なら尚の事である。


「今日も奥さんの見舞いかい?アンタも毎日大変だねぇ」

「あんな大きなしていても、寂しがりやなんですよ。あまり話す人も居ないようですし、愚直くらい聞いてやらないと」 


 中央処置室の辺りで彼と別れると、大澤はエレベーターに乗り、3階から上にある入院病棟へと昇っていった。


 ナースセンターで見舞いの受付を済ませ、病室へ歩いている途中、リハビリだろうか複数の入院患者が医師の指示の元、廊下の端から端までゆっくりとした歩調で歩いていた。また他の患者は大きなガラス窓のある場所で、ソファーに腰を掛け入院前はそこに自分もいた、外界の景色をぼんやりと眺めている。いつ病院ここから出られるのか、わからない不安を少しでも和らげるために。

 病院職員たち専用のエレベーターの近くにある、とある個室の前で大澤は足を止めた。壁に掲げられている名札に、自分の名字を見つけたからだ。

 

 コンコン……


 大澤は扉を軽く、二度ノックして病室へ入っていく。ベッドには上半身を起こしテレビから流れるワイドショーをぼさっと観ている悠がいた。彼女は見舞いに来た大澤の姿を見つけると、今日一番の明るい表情をみせた。


「あらっ、隆司さん」

「どうだい、身体の調子は?」


 彼はベッドの側にあった丸椅子に、腰を掛け両手の紙袋を下に置いた。中には下着の替えやDVDソフト数枚、プロレス雑誌にスポーツ紙などが入っている。試合中に自分の判断ミスで足に大怪我を負い、団体の終わりに立ち会う事ができず落ち込む遥に、プロレスに関する物は彼女に復帰を急かしているようで、正直持ち込みたくない大澤だったが、悠にとってプロレスはなので仕方がない。


「ねぇ、昨日の試合見せてよ」

「おぉ、ちょっと待ってなさい」


 そう言うと大澤は、ケースの中から何も表記されていない真っ白な円盤を取り出すと、備品である黒いDVDプレーヤーを起動させた。


 モニター画面には白熱した昨日のメイン戦、ユカ&MADOKA組対舞海&沙耶の試合が映し出された。ビデオカメラで撮影したもので、固定フィックスなのでロープに隠れ映っていない所もあるが、試合の熱気はモニター越しでも十分伝わった。その中でも愛弟子・沙耶の覚醒は、長い間彼女を指導してきた悠を喜ばせた。


「沙耶さぁ……目ぇ覚めるの遅すぎだって、まったくもう」


 MADOKAからスリーカウントを奪い、喜びの咆哮を上げる沙耶に文句を垂れる悠だが、それに反して顔は嬉しさでいっぱいだ。


「――それじゃ、俺はもう行くから」


 大澤はそう言うと、丸椅子からゆっくり立ち上がった。


「今日は昼興行マチネだったわね。いってらっしゃい隆司さん」


 悠の洗濯物でいっぱいになった紙袋を手にし、大澤は扉の方へ歩いていく。しばらく彼の姿を目で追っていた遥だったが、扉に手を掛けた瞬間、ちょっと待ってと呼び止めた。


「どうした?また明日もくるから――」

「そうじゃないの。ねぇ隆司さん?」


 いつもの軽い冗談かと思っていたが悠の声のトーンが違っていた。大澤は彼女の方へ再び身体を向ける。


「――隆司さんは、この十年楽しかった?団体を興して良かったと思ってる?」


 意表を突いた質問に呆気に取られる大澤。馬鹿言うな、と笑ってはぐらかす事もできたが、質問には真剣に向き合わなければならないと感じた彼は、暫しの沈黙の後に口を開いた。


「経済的には何度も苦しい事があったけど、長い目で見たらそれも含めて楽しかったと言えるよ。いや、面白かったかな。資金繰りは大変だったけどそれでも、プロレスを観に来てくれる地域住民の方たちの嬉しそうな顔。新しい戦場が出来た、プロレスがまた出来ると喜んで上がってくれた、ベテラン選手やフリーランスの選手たちの覇気に満ちた顔――みんないい思い出だよ」

「よかった」

「どうして?」

「辛かったとか早くやめたかったとか、隆司さんの口からネガティブな答えが帰ってこなくて。わたしね――この団体が無かったらもっと早く、この世界から足を洗っていたと思う。こんなポンコツおばさんを使ってくれる物好きな団体なんて無かったから」

「うん、そうだったな」

「それでもわたしは闘う事に飢えていた――悲鳴をあげる身体に反して。プロレスはわたしの人生を豊かにしてくれ、世の中の良い部分や汚い部分も教えてくれた。そんな大事なものを簡単に捨てられるわけがない」

「……」


 穏やかな表情とは正反対の、熱のこもった悠の語りに大澤は引き込まれていく。


「そんな事を悩んでいた時、隆司さんが“ウチで戦わないか?”って声を掛けてくれたの。本当に嬉しかった。まだプロレスの女神に見放されていなかったんだ、って。こまちに最初に上がった時は、30年以上前のデビュー戦の時みたいに緊張した、膝がガクガク震えたわ。結城悠はで生まれ変わったの。全盛期のような動きが出来なくても、全身故障だらけでポンコツの、ありのままの姿を見せればいいんだって」


 最初強張っていた大澤の表情も、悠の話が進むにつれて緩んでいった。彼女の団体に対する想いを聞くのは、今日が最初だったからだ。


「プロレスリングこまちをに決めたわたしは、団体が少しでも長く続けられるよう表裏関係なくがむしゃらに働きその結果、姫井沙耶というを世に送る事ができたし、居場所のなくなったかつての同僚や、メジャーに逆らう反骨心あふれるフリー選手らが集まれる場所も作れた。もう何もいう事はないよ。本当に、ほんとうに楽しかったね――隆司さん」


 悠の瞳にはうっすら涙が滲んでいた。大澤との二人三脚で過ごした年月の記憶メモリーが一気に雪崩込んでたのだ。そんな愛妻の姿をみて大澤も、感情が込み上げてきたがぐっと堪えた。そう、まだ終わりではない。団体代表として本日の、最終戦を見届ける仕事が待っているからだ。


「じゃあもう行くよ。東京からのを待たせているんでね」


 東京?お客?……悠の頭上に疑問符が浮かぶ。だが腕時計をちらちらと見て、時間を気にする大澤の姿に問う隙がなく、慌ただしく部屋を出ていく彼の、後ろ姿を目で追っていく事しかできなかった。


 病室は再び静寂に包まれた。自分以外誰もいない部屋を見回した悠は、大きなため息をひとつつく。負傷部分には大袈裟なほど固いギブスが施され、腕には点滴の管が繋がっている。幸いトイレには自力で行けるが、それ以上の自由は望めない。

 ゆっくりと流れていく時間に耐えきれず、少しでも気を紛らわそうと悠は、大澤が持ってきてくれた新聞や雑誌の束に手を伸ばした。


 ――ん?

 

 彼女はプロレス雑誌の束の間に、場違いにカラフルな表紙のパンフレットを見つけた。何だこれは?と、気になった悠は早速手に取ってみる。表紙には首里城跡や広々としたビーチの写真の上に大きな文字で『格安・春の沖縄、豪華三泊四日ツアー!』と表示されていた。どうやら大澤がこっそりと紛れ込ませたようだ。あまりに幼稚な彼からのメッセージに悠は苦笑するしかなかった。


「まーだ言ってるのね、あの人ったら」


 そう呟くと悠はパンフレットをめくり、魅力的に映る沖縄の写真をじっくり眺め始めた――



「今日はよろしくお願いします!」


 こまちの道場兼事務所に響く、ふたりの女性の声。巡業を回っている選手たちとは違う声だ。片方は背が高く髪の長い、もう片方は短髪で頑丈そうな体躯の女性だ。


「嬉しい!来てくれたんだね」


 大澤の隣に立つ彼女たちに、ユカが抱きついた。背の高い方の彼女も久し振りの再会に何だか嬉しそうだ。


「久し振り…って言っても一週間ぶりだけどね。あーやっぱりユカがいないと寂しいよぉ」

「七海さんの元気な顔、一週間ぶりに見ましたよ」

「うるせぇ!」


 3人の笑い声で、ぱあっと道場の中は明るくなった。

 大澤の言う東京からの客、というのは、赤井七海と日野祐希――ユカが所属する、東都女子プロレスの選手たちであった。

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