第10話 嵐の前の……

 サッシ窓を覆う障子の隙間から、容赦なく差し込んでくる朝の陽射しでユカは目を覚ました。

 ずきずきと痛む頭をさすりながらゆっくり辺りを眺めてみると、部屋のあちこちに散乱していたはずのレモンサワーの空缶はすべて無くなっていた。きっと面倒見の良い仁科が全部持ち帰っていったに違いない。

 部屋の備品である小さな冷蔵庫から、ペットボトルのミネラルウォーターを取り出し乾いた喉へ一気に流し込む。それまでからからに干からびていた身体へ水分が充填され、朧気だったユカの意識は次第に鮮明クリアーになっていく。

 次々と頭の中に浮かび上がる昨晩の、仁科との飲み会で交わされた会話の数々。楽しかったのは勿論だが、彼女から何か大きな課題を与えられたような気がする。それが何だったか思い出そうとするも、深酒の代償である頭痛がそれを拒む。

 自分の額を人差し指で小突きながら、部屋の中をぐるぐると歩き回るユカ。だが記憶の掘り起こしサルベージはあっけなく終わりを告げた。テーブルの上にメッセージが書かれたメモ用紙が一枚置かれていたのだ。帰り際に仁科が残していったものだろう。

 

  悠さんはきっとユカちゃんが挑んで来るのをと思う。だから私との約束絶対忘れないでね。


 厳つい身体からは信じられない、仁科の繊細な文字を見た途端ユカの脳裏に、昨晩の飲み会の時に彼女と交わしたが浮かび上がった。ユカは酒の席とはいえ調子のいい事を口走ってしまった、と一瞬後悔したが、すぐに思考をポジティブな方へ修正した。


 《レジェンド》悠さんを引退なんてお願い、そうそうめぐってくるものじゃない。たぶん仁科さんはキャリアの浅い沙耶ちゃん以外の、いろんな参戦選手たちに言い廻っているかも知れないけど、自分の都合よく物事を解釈しちゃうのは、昔っからのわたしの悪い癖――ふん、上等じゃない。

 あの人の、熱いプロレスへの想いを断ち切る事が出来るのは、冨美加さんから結城悠のを受け継いだこの小野坂ユカわたしだけなんだから!


 浴衣の帯を解き、着慣れた東都女子のジャージに袖を通すユカ。決意を新たにした彼女から頭痛はとうの昔に消えていた。



 プロレスリングこまちの道場から車で十五分程離れた市街地にある、築三十年は経つであろう中層マンション――リング外の自身のプライベートな事柄は、ファンは勿論他の選手や団体スタッフにも秘密にしてきた結城悠が、この世で唯一リラックスできる癒しの空間がそこにはある。

 朝食の準備中であろうか、キッチンに備え付けられているガスコンロに火をかけ、お味噌汁をつくっている悠の姿。すでにダイニングルームの食卓上にはよく焼けたアジのみりん干しやカップ入り納豆など、いくつかのおかずが置かれ今や遅しと待ち構えていた。

 食欲をそそる朝ごはんのいい匂いに引き寄せられるかのように、悠のいる場所とは別方角の廊下から部屋履きのスリッパを擦る音が近付いてくる。はて、この住居には悠だけしかいないはずである――いったい誰だろうか。鍋の火加減を見つつ彼女は穏やかに、ダイニングルームにやって来た寝間着姿の人物へをする。


「おはよう隆司さん。もう少しで終わるからちょっと待っててね」


 彼女の挨拶に大きな欠伸で応えた後、ゆっくりと食卓の椅子へ腰を掛ける、グレー色の髪も薄くなった初老の紳士――それはプロレスリングこだまの代表である大澤であった。ふたりは団体代表と所属選手という間柄だけでなく、きちんと役所に籍も入れた夫婦の関係でもあったのだ。

 大澤は食卓の上に置かれている、冷たい水をコップに注ぎそれを一杯飲んだ後、手にしていた新聞を広げ、社会面に横へ目を通す。

 悠が彼の妻になったのは四年前と至って短いが、大澤は六十歳、悠は五一歳とお互いに随分な年齢としなので、雰囲気はまるで長年連れ添った熟年夫婦のような落ち着きぶりだ。もっとも、これは旦那である大澤の温厚な性格によるもので、共同生活をする中で相手の行動が時に気に障り、口汚く罵ったり暴力に訴えた事は殆どなく、お互いの領域テリトリーを護りつつ夫婦パートナーとして距離感を保っている。

 

「身体の調子はどうかね、悠?」

「良くない、なんて言えないのを知っていて聞いてくるなんてズルいわ」

「ははは、悪かった。連日試合で疲れが溜まっているだろうからちょっと、な」

「この巡業が終われば――しばらく暇になりますから、もう少しの辛抱ですよ」


 熱めのお味噌汁を啜り、炊き立てのご飯やおかずを頬張りながら、ふたりは短い言葉のやり取りを交わした。内容は自分たちの仕事柄プロレスについての業務報告や意見交換となる事が多いが、団体の解散を間近に控えた最近ではの生活について話をする事も増えてきた。

 大澤は新聞に掲載されている、沖縄への格安ツアーを案内した旅行代理店の一面広告を指さし悠に見せた。ハイビスカスの花や海原に浮かぶ離島、そしてどこまでも続く砂浜など定番の素材写真だが、確実に見る者に《常夏の国》を印象付け旅行への意欲を掻き立てる。


「ここの沖縄旅行は値段も手頃だしツアーの内容も良さそうだね。 まだだってしてないんだから、一段落ついたら休養も兼ねて行ってみないか?」

「沖縄かぁ。最後に行ったのは十年前くらいだったかしら――あなたとの、いいわね行きたいわ」 


 思わぬ大澤からの提案に顔を綻ばせる悠。だが言葉とは裏腹に心此処に有らずといった感じだ。団体最後の巡業も半ばで今はまだまだ試合に集中したい彼女には、彼からの南国への誘いは早々すぎて現実味リアリティを感じられないでいた。悠の気持ちの中では今は大澤の妻というよりも、大事な一座を預かる看板レスラーとしての比率が大多数を占めているのだ。

 完全にノーではなく、極めてを彼女から貰えたと捉えた大澤は、先に食事を終えてシンクで食器を洗うをする悠を横目に、満足そうな表情で皿の上のみりん干しに再び箸を付けた。



 リングの上で受身を取る鈍く低い音が、人もまばらな体育館の中に響き渡る。開場前の試合会場では本日の興行に出場する選手たちが、各々の方法で試合に向けて準備をしていた。

 何度もユカに投げられ寝かされ締められる沙耶。だが弱音は一切吐かないところは師匠・悠譲りだ。グラウンドでの頭蓋骨絞めヘッドロックで絞り上げられ苦しそうだが、彼女の着ているシャツの端を掴んでユカを睨みつけていた。そんな負けず嫌いで何かにつけていちいち抵抗する沙耶が、ユカは憎らしくも可愛くて仕方がない。だからついつい力加減も忘れ、このがどこまでやるのか試したくなってしまう。

 万策尽き抗う事を止めた沙耶が、彼女の背中を叩きギブアップをする。

 共に過ごした期間は短いが、の成長速度の速さに満足したユカは、瑞々しい黒髪をわしゃわしゃと掻き回し「よくがんばりました」と褒めてあげるのだった。だが彼女流の愛情表現は、本人には完全に伝わらなかったようで、掻き乱されていろんな方向へ跳ねてしまった髪の毛を沙耶は、手櫛で整えながらぶつぶつと文句を垂れ膨れていた。髪を乱され拗ねている彼女もまた可愛らしい。

 沙耶との練習を終えてリングから降りていくユカと、入れ違いでリングへ上がるMADOKAとの視線がかち合った。普段なら仲良くバカな話をして盛り上がるふたりだが、今日に限ってお互い声を掛け合う事もなく軽く会釈をするだけにとどまった。

 ユカは会場入りしてすぐに、悠から今日のカードを聞かされた時の事を思い出していた。


 ウチの団体は老若男女問わず、誰が見ても楽しめる試合を基本組んでるけど、たまには都市部でやっているようなマニア的な試合も有りかなって思ってるの。それでMADOKAとのシングルマッチ、お願いできるかしら?


 MADOKAとは以前から顔見知りではあるけれど、試合は一度もした事がない。

 デビュー前から練習していた総合格闘技が、ファイトスタイルの下地ベースであるといわれているが、おふざけ上等コミカルチックな部分も持っておりなかなか一筋縄ではいかない。鬼の顔を出すのかピエロの顔を出すのかは気分次第、彼女のペースに引きこまれてしまえば己を見失い痛い目を見るのは確実だ。

 だがユカにもこの七年間で培った確固たるスタイルがある。どんな相手とでもをする事が出来る彼女には、東都女子のファンたちから《名人》の称号を頂戴するほどだ。思わず息を飲んで見入ってしまう緊張感あふれる格闘技テイストな試合でも、大爆笑必至なコミカルマッチでも相手が望むどんなスタイルでもどんと来い!だ。それに《レジェンド》悠に対し、最大の敵は事をアピールする丁度いい機会だ。仮にもし、この闘いに勝利できなければ彼女の首を取ってやる、などという大口は今後一切叩けないだろう。つまりこの試合は言い換えれば、結城悠からのに他ならない。

 きっと悠はMADOKAにも同じ事を言って焚き付けているに違いない。去り際に見た彼女の、殺気に満ちた視線が何よりの証拠だ。


 やるよ、やってやるよ。絶対MADOKAに勝利して、あなたのいる場所までたどり着いてやるから。

  

 自分は試されているのだ――そう思うと彼女の心は、心の中から湧き上がる闘争心で熱く燃え上がる。自分がグループの長となった東都女子ではもう二度と味わえない、上の者へ盾突かんとするという、半ば忘れかけていた感覚に打ち震えるユカであった。

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