第17話 夢みる少女じゃいられない
貴重な休暇日もあっという間に終わり、いよいよ【プロレスリングこまち】解散前のラストツアー後半戦がスタートした。
選手たちは残りの三連戦を無事に完走できるよう、休みの間は
こまちの大エース・結城悠の負傷欠場のニュースは、団体ホームページやTwitterほかSNS媒体でファンたちに伝えられた。しかしここに集まる観客の半数が、パソコンや情報端末を使えない高齢者たちで、直接会場まで来て悠が出ないのを知るや帰ってしまう者もいたが一方で、普段は「田舎廻りのプロレスなんて」と見向きもしない、情報端末を日頃から使用している世代が、動画サイトの団体公式チャンネルにアップされた、先日のユカ対MADOKAを中心とした試合ダイジェストや、試合後に起きた舞海の乱入劇などを観て興味を持ち、至る地域から多くの人たちが小汚い小さな会場へ足を運んだのだった。
こまちの絶対的エースを欠き、最初は厳しい客入りを覚悟した大澤だが、予想だにしなかった来場者の数に「どうにか格好は付いた」と、ほっと安堵の表情を浮かべたのであった。
在日メキシコ人レスラーのエレクトラが、リングの中を閃光のように駆け巡った。
観客たちの一部には彼女の素早さに目が追いきれず、今自分の眼に映るものがエレクトラ本人なのか、それとも残像なのかと軽く混乱する者もいた。本場のルチャリブレ(メキシコ式プロレス)を知らない者からすれば極めて素直な反応である。
だが対戦相手である沙耶は戸惑う事なく、ルチャ序盤戦の攻防でみられる
ひと通りの動作を終えたふたりが、ファイティングポーズをとってぴたりと静止すると、客席からは驚きの声と称賛の拍手が一斉に沸き上がった。
本国メキシコでは
ふたりは間隔を取り、リングの上を反時計回りにゆっくりと周る。
キャリアから来る余裕なのかエレクトラが終始笑みを浮かべているのに対し、一方の沙耶は一ミリも表情筋を動かさず、絶えず相手に不穏な動きがないか細心の注意を払う。
エレクトラが上半身を僅かに前へ傾けた。正面からのタックルに備える沙耶であったが、それをあざ笑うかのようにメヒコの閃光は、ウエーブのかかった黒髪をなびかせ想像していた以上の速さで背後を取るや、軽々と彼女の身体を軽々とリフトアップしマットの上へ叩き付ける。キャンバス下の板が爆ぜる音が冷酷さを際立たせた。
胸や腹を激しく打ち付け、一時的に呼吸ができなくなった沙耶に待っていたのは複雑怪奇な
セコンドに付いているユカがリング下から、エプロンマットを激しく叩いて檄を飛ばす。
それに呼応するように発生した客席からの、二拍子の拍手が消沈気味だった沙耶のハートを奮い立たせ、極められていない箇所を用いじりじりと匍匐移動し、やっとの思いで
伏した状態の沙耶の視線が、リング下のユカとかち合った。お互い同士言葉を掛け合う事はなかったが、目を見ているだけでも相手の言いたい事は大体わかる。
尊敬する先輩が見守る中、沙耶は昨日の出来事を思い出していた。
「へぇ~、これ全部沙耶ちゃんが集めたの?凄いなぁ」
ユカは部屋の壁いっぱいに貼り付けられた、当世の人気女子プロレスラーたちの切り抜き写真や、ミニポスターの多さに驚きと感心の溜息をついた。沙耶がプロレスという競技の面白さに目覚めた中学二年生の頃から、プロレスリングこまちへ入門する高校入学までの期間に収集していたものだ。喜怒哀楽様々な表情、多種多様なリングコスチュームを身に纏う《闘う女神たち》の、最も輝いている一瞬を収めた印刷物たちにユカはそっと指を滑らせた。
殆どの選手たちが観光やショッピングなどで一斉に宿から出てしまい、何となくひとり取り残されていたユカは、沙耶からの昼食をお誘いを受け彼女の実家へと招かれた。生活臭のある場所へ行くのは随分と久しぶりだったし、沙耶の母親が作ってくれる昼食の味は上京するまで住んでいた郷里を思い起こさせた。つまり結果的にいい
高校の教科書が学習机の棚に並べられている、現役女子高生感ばりばりな空間である沙耶の自室へ通されたユカは、過ぎ去った学生時代の記憶を辿るように部屋の中をしげしげと眺めた。
「ユカさんって学生の頃、どんな感じの女の子だったんですか?」
「すげぇ地味~ぃな女子高生だったよ、ホント。周りが山に囲まれてたから閉塞感っていうの?そういうのがあってここから出たいなって漠然と思ってた」
「じゃあ、故郷にはあまりいい思い出はないんですね」
「う~ん突出していい事もなかったし、かといって酷く辛かった思い出もないなぁ。年齢をもっと積み重ねれば全てがいい思い出に昇華されるんでしょうけど、まだまだ若いからねぇ」
足の裏にしっくりとくる畳敷きの部屋、下の台所から上ってくる料理の匂い――あまりにも温かく家庭的な空間に、少しだけ郷愁の念に駆られるユカであった。
沙耶がしつこく過去の事ばかり聞いてくるので、今度は逆にお返しとばかりにユカが彼女へ質問をしてみた。
「じゃあさ、沙耶ちゃんはどうしてプロレスラーになろうって思ってのかな?」
「えっ、あの……言わなきゃダメですか」
「全部吐いちゃってラクになろうぜ」
人には散々過去の話をさせて、自分が一切喋らないというのはあまりにも
「わたし以前は体操を習っていて、中学に入るまでにいくつかの大会で入賞したりして、それなりに周りから将来を期待されてました」
沙耶の部屋へ案内された際に、通りがかった応接間にあった木棚の中にトロフィーやメダルなどが飾られていたのを、ユカはふと思い出した。幼少の頃から彼女は身体能力に優れていたようだ。
「おだてられて勘違いしちゃったんでしょうね、散々親に駄々をこねまして体操の強豪校と名高い中学へ入学したんです」
「やっちゃったね。でも元々筋がいいから中学に入ってもかなりの所までいったんじゃないの?」
そう尋ねられた途端、少しだけ沙耶の笑顔が曇ったようにみえた。どうやら絶頂期のはずである彼女の体操部時代には、あまりいい思い出がないのかもしれない、とユカは薄々感じた。
「それが……途中で辞めちゃったんです、体操部を」
県下随一の強豪校――という事は、いろいろな地域から強い選手たちが集まって来るという事である。いくつかの小規模な大会で辛うじて入賞した沙耶とは違い、何度も全国レベルの大会に出場し、金銀銅いずれかの色のメダルを取得した経験のあるエリートらと一緒に練習する中で彼女は、「この子とはレベルが違う」と何度も痛感する一方で「負けてなるものか」と自分自身を奮い立たせ、大人でも音を上げそうな厳しい練習に必死に付いていった。
だが入学後最初に出場した夏の大会で、沙耶は決定的な深手を負ってしまう。
出場した他の部員が表彰台や入賞を果たす中、彼女ひとりだけが落選してしまったのだ。体調も万全で何ひとつ問題はなかったはずだったのに、自分だけが落ちこぼれた事に十三歳の少女は深く傷ついた。これで周りの選手から駄目だ下手だと罵られればまだ反骨心で立ち上がれただろうが、次々とかけられる労いや優しい言葉の数々はまるで自分が見下されているようで、あれほど好きだった体操への情熱も続けていく意味も全て失ってしまった。
この後程なくして体操部を逃げるようにして辞めた沙耶は、人目を極力避けるようになりごく一部の人間としか会話をしない、まるで鬱のような学校生活をしばらく過ごす事となる――――――
沙耶の視界にはリングを煌々と照らす、天井の
同時に背中や両肩に軋むような痛みが走る――脚や腕を完全にロックされ仰向けの状態で天高く持ち上げられる、ルチャリブレを代表する関節技である
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