第16話 Re:Start
今日も朝が訪れる――空は青く澄み渡り清々しいほどに快晴となったが、人の心はそう単純には晴れてはくれない。
宿にある大浴場へと続く廊下をペタペタとスリッパを鳴らし、だらしなく着た浴衣の裾を引摺ってユカが歩いていた。昨晩の疲労がまだ残っているのか、彼女の顔からは生気が感じられない。
昨晩は試合中に大怪我を負った、結城悠を搬送する救急車を見送った後、帰路につくバスの中で大先輩であるクラッシュ仁科と、今後について話し合った所まで記憶はあるが、バスから降りた後にどうやって、宿屋の自分の部屋まで戻ったのかてんで覚えがない。そのおかげで今朝の目覚めはとてもよく、あの夜の出来事を引っ張らずに過ごせそうだ。
大浴場に足を踏み入れると、更衣室には利用客の姿がひとりも見当たらない。
誰もいないなんてラッキー!と喜ぶユカであったが、風呂場の出入口を仕切っているサッシ戸に突如、人影が映ったのでびっくりして心臓が大きく脈打った。
「あ、ユカさん」
風呂場から出てきたのは舞海だった。
道場や試合会場で普通に目にする、着衣姿やリングコスチューム姿とは違い、覆い隠すものがタオル一枚という真っ裸で立つ仲間の姿を、直ぐ間近で見るのはなかなか新鮮な経験であった。
カフェオレのような色をした褐色の肌に肉付きのよい身体。その体躯を一目見ただけで彼女の名を知らない者でも、一流の
ユカは右手を上げ舞海からの挨拶に応える。だが昨夜の試合後に起きた突然の乱入劇、そして一方的な対戦表明を考えると、簡単に心を許して会話ができる心情ではない。話し掛ける事に躊躇するユカを無視し、舞海は勝手に話を続けた。
「後悔――なんてしてませんから。ユカさんに対しても自分自身にも」
何て強い娘なんだろう。
一時的にとはいえ、つい弱気になってしまった自分とは違い、ブレる事なく確固たる自信と覚悟を持って対面する舞海に、ユカは理想のプロレスラー像を見た気がした。様々な現場でいい事も悪い事も全て経験してきたのだろう、どこの団体にも所属せず己の身ひとつで稼ぐ生き方、フリーランサーの逞しさを目の当たりにする彼女であった。
「――わたしたちはリングの上で、身体を使ってしか本音を語り合えないんだから、口であれこれ言い訳してもそれは嘘にしかならないよね。本音を聞きたきゃ四の五の言わずにぶん殴れってか?」
経験から生成された精神的な強さ、というものを全身から漂わせてくる舞海に当てられたのか、感化されたユカの発言も強気なものへと変化していた。相手の存在を強く意識するふたりだが、そこには妬みや怒りなどという負の感情はない。相手を倒したいという純粋なライバル心が存在するのみだ。
「そういう事です。団体から招かれた「お客さん」だからって遠慮する事ァないんですよ。どんどん自分というプロレスラーをセールスして、他の試合を喰っちまうくらい大暴れすればいいんです。ホスト団体にいる選手がこれに応えられないのならそれまでの団体という事ですから」
逞しい身体からはかなり違和感のある、可愛らしいデザインの下着を付け着替えを終えた舞海は、怒っているのでも微笑んでいるでもない、感情を読ませない微妙な表情を一ミリも崩す事なく、ユカに軽く頭を下げ大浴場から去っていった。
勝敗が決まるまでは、こんな距離感が続くんだろうなぁ――来るべきシングル対決に胸踊らせたユカは、着ているものを籠の中へ脱ぎ捨てると、早朝の肌寒さに身体を震わせ早足で風呂場の中へ入っていくのだった。
プロレスリングこまちの道場の、壁に掛けられている時計の長い針が午前十時へと近付いていた。
今日は巡業三連戦後の
昨夜救急搬送された、結城悠の診断結果である。
こまち代表の大澤本人から、彼女の容体についての報告を今朝行うというので、座長代理の仁科が招集をかけたのだ。当然オフ日なので希望者のみの参加と前置きをしていたが、外国人選手も含め全員が集まってくれた。
約束の時間通りに大澤が道場へ姿を現し、道場に集まった選手たちに挨拶をする。寝不足なのだろう若干彼の顔に疲労の色がみえた。
「それで……悠さんの容体はどうなんですか?」
待ちきれず仁科が尋ねると、大澤はずり下がっていた眼鏡の位置を直し静かに語り始めた。
「悠の怪我だが、脚の骨は完全には折れてなく軽くひびが入っているだけだったが、それでも日常の生活に戻れるまでには二~三か月程度掛かる、との診断結果だ」
「それじゃあ、試合なんて無理ですね……」
「ああ。せめてリングの上での挨拶だけでも、と考えていたが……誠に残念だよ。団体の解散にあわせて彼女には、有終の美を飾ってもらおうと思っていたが」
この残念な報告に皆がざわめきたった。
だがこうなる事は各々が想定していたのだろう、さほど落ち込んでいる様子はない。確かにこれまで
幸い興行の目玉となり得るカードがひとつ残されていた――ユカと舞海の一騎打ちである。
双方とも団体外の選手であるが、その小さな身体をフルに生かした独自のファイトで、試合をする毎におじさん人気の高まってきたユカと、彼女に因縁を吹っ掛けた舞海との対戦は誰もが観てみたい一戦だろう。
「大きな団体だと前哨戦を、何度かやって期待を高めていくんでしょうけど……巡業の日程も残り少ないからぶっつけ本番でいくわ。ふたりとも異存はない?」
意識して互いが離れた場所にいる、ユカと舞海に仁科が確認を取る。ふたりは一度だけ顔を見合わせるとすぐに、仁科の方を向き「はい」と簡潔に返事をした。
皆が歓喜の声をあげる中、唯一の団体生え抜きである沙耶は複雑な面持ちで、この光景を眺めていた。
こまち最大のピンチだというのに所属選手である自分ではなく、余所から来た選手においしいポジションを取られているという悔しさと、自分の実力が彼女たちの足元にまで及んでいないのではという劣等感が、彼女の胸の中でぐるぐると渦巻いていた。
――こまち生え抜きのわたしが、何でユカさんたち余所者にメインカード盗られて安心してるのよ?本当なら所属選手のわたしが大会を締めるべきじゃない?絶対おかしいよ!悔しいよ!!
とうとう沙耶の押さえていた感情が爆発し、溜まりに溜まっていた鬱憤をぶちまけた。それは我儘ではない所属レスラーとしての
「わたし、MADOKAさんと闘いたい!もういつまでも皆に末っ子扱いされるのはイヤなんです。だから仁科さん、是非シングルマッチお願いします!」
沙耶から突如前触れもなく、対戦要求されたMADOKAは一瞬驚いたが、今までに彼女から見えなかった必死さを熱視線から感じ、やっとその気になったかと彼女はにやりと微笑んでこれを了承する。
仁科はすぐに大澤へ確認を取ってみた。この運営側と選手との垣根の低さがメジャー団体にはないローカル中小団体の強みだ。しばらく互いの意見を出し合い擦り合わせたのち、彼女は提案されたマッチメークに関する結論を述べた。
「となると、やはり前哨戦は必要かしらね。ユカちゃんと舞海さんとの遺恨は知っている人はいるかもしれないけど、マドちゃんと沙耶との間には何もないからね。まずはユカ・MADOKA組vs舞海・沙耶組のタッグマッチで煽っておいて、最終戦でそれぞれのシングルマッチを行う――これでいきましょう。キツいでしょうけど頼むわよみんな!」
百戦錬磨のベテランたちを差し置いて、興行の要となるメインカードを託された四人のおんなたちは一斉に頷いた。
「みんな」と仁科は四人含めて激励しているものの、彼女の視線は他でもない沙耶の方を向いていた。やはりデビュー前から彼女の懸命に練習する姿も、試合で闘う姿も全部見てきただけあって、悠の妹分としては甥っ子のような存在である沙耶を、どうにか一人前のプロレスラーにしてあげたいと前々から思っていた。
そして沙耶本人もいつまでも、甘えん坊な末っ子ポジションのままではいけないと危機感を抱いたのだろう。ユカたちら外部から参戦してきたレスラーたちとの交流で、一歩前へ踏み出すだけの自信と勇気が付き、加えて悠の戦線離脱によって彼女の心の中には、いつしかプロレスラーとしての覚悟と自我が生まれていた。
これは行けるかもしれない――!
女子プロレスの未来を担うであろう四人の乙女、そして彼女らを全面的にバックアップせんとする百戦錬磨なベテラン勢。全員が大会の成功へと向かって足並みを揃えた時、大澤は得も言えぬ高揚感に包まれるのであった。
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