第15話 先の見えない航海

 風船のように大きく晴れ上がった足が、事態の深刻さを物語る。

 懸命のアイシングや応急処置によって、悠に降りかかる痛みの波は若干退いてきたがという事実は、彼女の心にかなりの負荷を与えていた。

 簡素な控室の中ではベッド代わりの長椅子に身を横たえ、迎えの車が来るまで安静にしている悠を真ん中に、自分のミスで彼女に怪我をさせてしまった仁科、それに参戦選手たちが一定の距離を取り周りを取り囲んでいた。

 悠のすぐ側にいる仁科は、同僚や後輩たちが自分を見ているのも構わず己の未熟さを恥じ泣きじゃくる。沙耶などの若い選手たちは彼女の女性らしい、繊細な部分を一度も見た事がなかったので、誰よりも仕事に厳しい普段との違いに驚きと戸惑いを隠せないでいる。


「すみません……本当にすみません……」


 普段から「相手に怪我をさせるのはヘタクソがやる事だ」と後輩たちに口を酸っぱくして説いてきた仁科本人が、よりにもよって尊敬する先輩である悠に大怪我を負わせてしまった事で、生気のない青褪めた顔で同じ言葉を何度も、繰り返し続ける様はあまりにも痛々しく、若手は当然として誰一人も彼女へ慰めの言葉を掛ける者はいなかった。

 大きな身体をを縮ませ、肩を震わせて泣いている仁科の頬に何かが触れた。

 悠の掌であった。

 動けない身でありながらも、罪の意識に駆られ苦しむ可愛い後輩を、何とか励まそうと咄嗟に手が動いたのだ。仁科は頬から伝わって来る体温と自分のミスを赦す寛大な心が、どん底まで落ち込んだ彼女のメンタルを少しづつ回復させていく。


「……みさちゃんゴメンね」

「何言ってるんですか、全部わたしが悪いんです」


 自分を追い込もうとする仁科に、悠は首を横に振りこれを否定する。


「試合は散々だったけど、最後の最後でお客さんの視線をいったじゃない?あれは痛快だったよねぇ」


 そういって顔を綻ばせる悠だったが、表情にまるで力が入っていないのが誰が見ても一目瞭然だ。それでも仁科は彼女の心遣いに応えようと何度も何度も頷いた。


 先輩たちふたりの痛々しい姿に、ユカは自分たちの試合が彼女らを追い込んでしまったのではないかと酷く後悔した。エースである結城悠に対戦を迫るために、穏やかだったこまちの世界観へ劇薬をぶちまけた張本人は深く落ち込んだ。

 そんなユカの姿に気が付いた仁科は、「ちょっと来て」と自分の隣へ招くと頬に置かれた悠の掌を彼女に手渡した。

 一言も発せず静かに見つめ合うふたり。

 正直ユカはこの場から離れたかった。脂汗にまみれ痛みに顔を歪める悠を直視できないのなら、床にへたり込んで泣き喚いて許しを請えればどれ程楽だろうか。

 だがそれはできない。

 まだ右も左もわからない新人ならばやれたのかもしれないが、試行錯誤を繰り返し修羅場と呼ばれるピンチも潜り抜け、そして自分の団体には彼女を慕う後輩たちがいる一人前のプロレスラーだからだ。

 相手が自分の目を直視し続ける限りは、決して視線を逸らしたりはぐらかしたりはしない。もしそれをしてしまえば規律を乱したのレッテルを貼られる事になる。

 

「……いい目をしてるね、ユカちゃんは」


 悠はユカの強い信念を感じる目力を褒めた。決して生意気ではなく良かれ悪かれ、自分の行動に対して覚悟を決める事ができる芯の強さに感心したのだ。


「貴女は何も悪くない。時代の流れに取り残されたおばちゃんたちがね、勝手に才能ある若い子たちに嫉妬した結果《自爆》しただけだから……自業自得よね」


 自分が備えている能力を超えて暴走したためにと、反省の弁を語りユカを宥める悠だが同時にその顔には、ユカたちを試合内容で超える事が出来なかった無念さも滲み出ていた。


「気付いてたわ、ユカちゃんがこの巡業中に私との対戦を望んでいる事を。だけどこの足じゃあ無理ね……ユカちゃんの想いを受けきれられなくて本当ゴメン」


 ユカは何も言えなかった。行く手を阻む難敵を撃破し最終戦でリングの上で悠と対峙しようと、勝手に思い描いていたシナリオが突然ダメになり、モチベーションの行き場を失ってしまった彼女は、強敵ライバルに対する叱咤激励の言葉がまるで思い浮かばないでいた。仁科から直接手渡された悠の手を握る指にも力が入らない。


 控室の扉の外から複数の靴音が聞こえてくる。三人以外の残された選手たちの視線は一斉に出入口の方へ注がれた。団体代表で悠の旦那である大澤からの要請で駆け付けた救急隊員たちがストレッチャーを引いてやってきたのだ。

 通してくださいと強い口調で叫ぶ隊員の声で、周りにいた選手たちは自然と分かれ道を作る。だが彼らが悠の元までやって来ても放心状態でその場を離れないユカを、仁科は脇腹を肘で小突き意識を呼び戻すとふたりを別々に分けた。

 長椅子をつなぎ合わせた簡易ベッドから、悠の身体をストレッチャーへと移動させる間も、大澤はすぐ側で激痛に顔を歪める彼女に、いろいろと言葉を掛け続け励まし続ける。この一連の行為にこの場にいた者たちはまるでを見ているようでまるで現実味を感じられないでいた。

 ふたりを乗せた救急車のサイレンの音が、体育館から離れていく毎に遠ざかっていく――それが全く聞こえなくなった時、選手たちは極度の緊張から解放され一気に現実へと引き戻しすのであった。


「……みんなお疲れさま。今夜はゆっくり休んで頂戴」

 

 沈黙が続く控室の中、最初に沈黙を破ったのはこのメンバーの中で一番の年長者である仁科だった。キャリアが長い分この場を仕切るのは自分しかいないと感じたのだろう。事実彼女の取ったリーダーシップやその発言に、気分を害したり反抗する者は誰一人いなかった。

 しばらくして団体スタッフが運転する移動用バスが到着する。

 車中へと乗りこむ選手たちの足取りは重々しく、皆口をつぐんで一言も漏らさなかった。いつもであればどれだけ試合で疲れていても、常に車内には笑い声と雑談があふれていたが、さすがに今夜はそんな気分にはなれない。

 一番最後に乗車したユカが定位置の席に移動しようとすると、仁科が手招きしこっちへ座れと彼女を呼んだ。運転席から程近い彼女の座る席の前後には、里田や久住ら《ゴースト》の面々の他には誰もいない。一番の年長者だから煙たがられているのか、或いは皆遠慮をしているのか知らないが、ともかくキレイに周辺だけは空いている。

 ユカは失礼の無いよう三人に会釈をし、空っぽだった仁科の隣の席へ座る事になった。


 選手たちを乗せたバスは長い車体を揺らしながら、漆黒の闇に包まれた山沿いの道路を突き進んでいく。

 固いアスファルトの上を走る際に生まれる振動は眠気を誘発し、多くの選手たちが宿舎へ到着する前に熟睡状態に入る中、ユカと仁科は周りに配慮し小さな声で話し合っていた。


「何も話せなかったですよ……悠さんのあの痛々しい姿を見てしまったら」

「そうだよな、分かるよユカちゃんの気持ち。私も皆に無様な姿を晒しちまったけどあれが精一杯だよ、取り繕って普段みたいに偉そうな態度を取るなんて出来ないって」

「悠さんの手を握ってじっと見つめられていると、段々と信念が揺らいでいきそうになるんですよ。あのひととは遺恨や因縁のない、健全なライバル関係でいたいだけなのに、自分のした事は間違いじゃなかっただろうか?悠さんを傷つけてしまったんじゃないかって……」


 ユカが神妙な面持ちでそう言った途端、パチンといい音で仁科に頭をはたかれる。少し痛いけれど温かみと優しさがこもっていた。


「十年早い。相手の心配なんかするな、ユカちゃんのレスリングの幅が狭くなっちまうじゃないの。いいか絶対に縮こまらないで、胸を張って堂々としているのよ。まだ先は長いんだからアクシデントのひとつやふたつで落ち込んじゃダメ」


 あぁ、この人と知り合いになれて本当に良かった――ユカは心底そう思った。


「さて、明日から大変ね。悠さんが戦線離脱してしまい、精神的支えを失ってしまったこまちという団体は今、航海途中で船長キャプテンを失った船のようなものよ」

「それで……何か善後策でもあるんですか?」

「ない。今のところは全くない。だから宿に帰ってひと眠りしてから考える」

「随分とのんびりしてますねぇ」

「ったりめぇだろ、突然すぎて悪い頭も上手に働かねぇよ。だから一度冷静になって状況を見極めてから判断する。どう?」

「賢明な判断です、姉貴」


 ふたりは顔を見合わせ、息を殺しながらくくくと笑い合った。闇の中をひた走る選手たちを乗せたバスは、目的地であるこまちの道場まであと五分の地点まで迫っていた。

 

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