第3話 《レジェンド》と弟子

「――挨拶が遅れて申し訳ありません。今度ご一緒させていただく小野坂と申します」


 表情筋を緩め何時になくしおらしい振る舞いでユカは、悠が差し出すグラスにビールを丁寧に注ぐ。


「あなた確か……冨美加の弟子だったよね」

「はい」


 悠の口から突如出た意外な人物の名。ユカは驚きビールを注ぐ動作が一瞬止まる。

 「冨美加」こと浦井うらい冨美加ふみかとは、元太平洋女子のアイドルレスラーで東都女子創立時のエースだった選手だ。団体経営陣との意見の相違で半年も経たないうちに東都を離脱してしまったが、旗揚げ準備期間を含めてわずかな間だけ、確かに浦井とユカとは師弟関係にあった。


「冨美加はね、太平洋女子では四期下の後輩だったのよ。王座を巡って幾度となく争ったり、休みの日にはよく遊びへ出掛けたりして、あたしにとっては妹みたいな存在かな」


 師匠である浦井の事を語る悠の表情は穏やかで優しかった。きっと同じ釜の飯を食べた同士にしかわからない、他人には計り知れない積もる想いがあるのだろう。


「その彼女が出来たばかりの東都に引き抜かれ別々になったけど、当時電話で練習生の事を話していて「ユカ」って子の名をよく彼女から聞いたのよ。あなた、相当冨美加から可愛がられていたでしょ?」


 一度も面識のない悠が自分の事を知っていた――それだけで誇らしさと気恥ずかしさでかっと顔が熱くなる。


「はい。浦井さんは数いた練習生の中で、一番小さかったわたしを気に掛けてくださって普段の練習以外にもいろいろと教わりました。いまプロレスラーとしての自分を形成する要素の半分は、彼女によって形作られたと言っても過言ではないしそれを誇らしく思います」


 堂々と、そして共に過ごした時間を懐かしむように語るユカを肴に、悠も心底嬉しそうにうん、うんと呟いて、グラスに注がれたビールを美味しそうに飲んだ。


「そういう意味ではユカちゃんも、この結城悠のDNAを受け継ぐ者のひとりってわけだ。あの子の持っている技術の多くは、あたしと闘う事で会得したものだから」

「そうなんですか!それでもうひとりの「受け継ぐ者」というのがお隣の――」


 そういうとユカは、悠のすぐ隣で清涼飲料水を飲んでいる女子校生に視線を移した。



「紹介するわ、この子が姫井沙耶。あたしのDNAを正当に受け継ぐのレスラーよ」


 悠から直々に紹介された沙耶は、薄桃色をした唇から飲みかけのグラスを離すと、ユカの方に向き直し深くお辞儀をする。何処にでもいるような十七歳の女の子――とは少し違う、強い己の意志を持った、凛と輝く視線にユカは只ならぬものを感じた。


「ユカさんのお姿は雑誌やテレビでよく拝見しています。この巡業中に対戦できれば嬉しいですね、当然負ける気はありませんけど」


 決してイキがる訳でもなく、表情ひとつ変えず淡々とを述べる沙耶の強気な態度に、ユカは腹を立てるよりもむしろ彼女の生意気さが、闘志と好奇心を掻き立てて目をキラキラと輝かせる。


 間近でふたりの心理戦を眺めていた悠は、何か面白い事を思いついたのかにやりと悪戯っぽい笑みを浮かべ、半分残っているグラスにビールを注ぎ足し飲みだした。


 それぞれの思惑が交錯しながら、楽しい宴の時はまだまだ続く――



 巡業一日目――


 プロレスリングこまちの代表・大澤が自ら小型バスのハンドルを握り、参加選手全員を乗せて向かったのは人口が千人にも満たない山間の小さな町。

 かつては炭鉱業でそれなりに栄えていたというが、車窓からみえる風景からはその面影もなく、古い商店や家屋が建ち並ぶ人通りの少ない、このセピア色の町の様々な場所に自分たちが出場する、色彩豊かな告知用ポスターが貼られているのがとても場違いに思えた。


 今日の会場は、町唯一の多目的施設である公民館だ。赤茶色に塗られたコンクリートの外壁の所々にひびが入っており、経過した年月の長さを物語っている。

 ここは今でも町の催し物やサークル活動などで用いられているが、有料客を入れて行う興行で使用されるのは昔はともかく最近ではあまりなく、ここ周辺の五千人未満の小さな町で行われるプロレス興行は、ほぼ【プロレスリングこまち】の独占状態といってもいい。メジャー団体や他のプロモーションが寄り付かないこそがこまちのホームグラウンドなのだ。


「ユカちゃん、ちょっとこっちへ来て」


 公民館のホールに設置されたリングの上で、愛弟子・沙耶を補助に付けてストレッチを行っていた悠が叫んだ。慌ててフローリング張りの床を駆けていくユカの姿に、周りで各々練習する選手たち全ての視線が注がれる。


 軽く息を弾ませてユカがやって来た。


「何でしょうか悠さん?」


 両脚を真っ直ぐ大きく広げ背中を曲げ、上体を胸までしっかりとキャンバスに着ける悠。デビューして以来休む事なく続けているのだろう、五十歳を越えているとは思えないほど柔軟な肉体にユカは驚いた。


「今日の試合ね――うちの沙耶とシングルマッチ、やって欲しいの」


 急なカード変更で驚いたのか、背後で悠の上体を押していた沙耶の動きがピタリと止まった。まだ経験が浅いせいもあり、突然の事態に頭の切り替えが上手くできない様子だ。

 一方のユカは一瞬訝しげな表情をみせたが、すぐに元に戻り悠の願いを了承した。突然の要望に対応できるのも多分にキャリアを積んだ、《トップ》と呼ばれるカテゴリーに属する選手だからこそである。


「えっ? あっ、あの……」

「どうした沙耶。やるの?やりたくないの?」

「やります!ユカさんと闘いたいですっ!!」

「そうよねぇ。負ける気なんてないもんね、沙耶は」


 渇望と遠慮とが心の中でせめぎ合う沙耶に、悠が必要以上に煽り立てて彼女の闘志に火を付ける。まったく大した策士だ。


「それじゃあ第一試合、ふたりに任せたわよ」


 感情的な沙耶と冷静なユカ――対照的なふたりの、肩をぽんと叩いて激励する悠。

 尊敬する自分の師匠、この世界の大先輩から直々に励まされ、最初の十分間を託された両者は嬉しさと緊張で頬をほんのり紅潮させ、熱視線を相手に向け固い握手を交わすと、東側にある舞台裏の控室へ急いで向かった。



「悠さんって、ホントですねぇ」


 極悪集団《ゴースト》のメンバーである、仁科・里田・久住がリングでの一部始終をみて悠の元へやって来た。時期的には随分下がるが彼女らも悠を姉と慕う、太平洋女子の後輩なのであった。


「彼女にはもっと経験を積ませたいの――皆が集まる場所があるうちにね」


 それまで楽し気だった悠の表情は少し陰っていた。そう、プロレスリングこまちという《団体》は今回の巡業をもって活動を停止するのだ。一気に厳しい現実へ引き戻された仁科たちは二の句が継げず黙り込んでしまった。


「沙耶を一人前のプロレスラーにする為には、親バカでも職権乱用とでも罵られて構わない。ひとりでも多く強い相手と戦ってプロレスの面白さや難しさ、そして奥深さを知って欲しい。それに――」

「それに?」

「単純にユカちゃんの試合を見てみたいのよ、いち観客としてね。かつて冨美加へ授けた結城悠のDNAがちゃんと生きているのか、またユカちゃんがそれをどこまで進化させたのかを確認したいの」


 ホールの入口付近で大声で大澤が叫ぶ。あと十五分程したらここを開けて客を入れるのだという。悠はふぅと深呼吸すると練習を再開させ、老体に鞭を打って最後の追い込みをかけた。

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