第5話 経験値の差

 良からぬ方向に捻り曲げられた腕から伝わる痛みが、十七歳の少女の身体を駆け回る。しかし喘ぎ声が口から漏れるものの、決して悲鳴は上げることがなかった。それが《レジェンド》結城悠を師匠に持つ彼女のプライドだった。

 この技から逃れられる方法を、頭をフルに回転させ瞬時に考える。もたもたしているとより深く関節が極まってしまい、自分の口で降伏宣言をしなければならなくなるからだ。

 痛みに耐えながらも空いていた方の腕で、自分の肩口からユカの頭部を掴む事ができた。

 ここからどうするのか?

 首投げフライング・メイヤーで、相手をマットへ投げ飛ばすのもひとつの方法だ。練習ではそうやって習ってきた。だが沙耶は違ったやり方で脱出を試みた。

 ユカを支点に、駆けあがるようにジャンプ。ここから振り子の要領で落下する勢いを利して、肩口から相手を投げればだが、沙耶は投げることをせず尻餅アス・バンプをついて、自分の肩へユカの顎を強く打ち付けた。

 がつんっ!と顎から脳天へと突き抜ける衝撃に、ユカは固定していた沙耶の腕を離すと同時に、キャンバスへ仰向けにぶっ倒れる。


 定石セオリー躊躇ためらいなく外す事、常に相手に先を読ませない事――一流トップと呼ばれる選手になるための最初の一歩だ。


 ――仮にも結城悠の愛弟子、それくらいは出来なきゃね。


 沙耶を後押しする男性ファンからの、野太い声援がリングに飛び込んでくる中、口の中に広がる傷の痛みと血の苦味に顔をしかめつつ、ユカはゆっくりと起き上がる。


 素早く沙耶の腕が頭に巻き付いた。再びヘッドロックだ。

 だが立って絞めるのは危険と判断したのか今度は、身を捻りユカの身体を大きく宙に舞わせて、寝技グラウンドの状態へ持ち込み力の限り絞め続けた。

 仰向けとなったユカが沙耶の顔を見る。造りはまだ幼いが気合の入った実にいい表情で、年配の男性客が入れ込むのも無理はない――そう思った。

 だけど彼らの意のままに試合が進むのはつまらない。ユカは腰を浮かし反動をつけ両脚を上げると、逆に今度は沙耶の頭を挟みヘッドシザースで万力の如く絞り上げる。脹脛ふくらはぎの内側で彼女は、再びペースを奪われた苛立ちで眉間に皺を寄せた。

 左右に身を捩って、沙耶の頭部へ圧力を加えるユカ。身体の動きを制限された美少女は、キャンバスの上を転がされ頬を擦り付けられる。口惜しさと惨めさでフラストレーションが積もる一方で、沙耶は暴走しがちな気持ちを鎮め次の一手を、これまでに得た知識と決して多くはない経験から探り出していく。

 しつこく頭を締め付けるユカの両脚を掴み、マットへ押さえ込もうとする下半身の力に反発し、少しずつ体勢を変化させて彼女を俯せの状態にした。そして膝をくの字に折り曲げ挟まっている頭を拈りながら、沙耶は交差するユカの脚からゆっくりと抜いていく。


 朧気だった視界が段々と開けてきた。すべての邪魔が取り除かれた後に見えたのは、必死になって自分を応援する最前列に陣取る観客たちの顔だった。


 抜け殻となったユカの両脚を押さえたまま、次の行動を考える。当然ユカも、何が自分に降り掛かって来るかを予想した。

 背中を標的ターゲットとした踏み付けストンピングか、エルボードロップか。もう一度ヘッドロックを狙ってくるパターンだって考えられる。


 ぱちんっ!


 軽快な破裂音が会場に鳴り響く。それと同時にユカの尻に痛みが広がった。沙耶はむきになって追撃するのを止め、思い切り彼女の尻をひっぱたき離れブレークしたのだった。

 観客の大爆笑のなか、恥ずかしさと痛さで顔を真っ赤にし、転げまわってコーナーへと逃げるユカ。自分の尻をさすりながら、反対コーナーで待機する沙耶の顔を見てみれば、ユカの滑稽な動作に、吹き出しそうになるのをぐっと堪え、あくまでも冷たく勝気な表情を作ってこちら側を見ていた。


 ――キィィィッ、なんて奴なの全く!でも面白いじゃん。相手に舐められないよう、一生懸命に虚勢を張っちゃってさ。


 プロレスとは互いが己の「格」を賭けて争われる見世物ショーである。

 相手よりも格下とみなされ、観客から冷ややかな目で見られるのが常だ。だから決して相手に舐められないよう、力の足りない部分は見栄で補って己を同格、もしくはそれ以上に見せる必要がある。


 自分は勝てなくて当然、ではない。弱いしれないが、お前にだけは絶対負けたくない――反骨心こそがプロレスラーの活力パワーの源だ。


  デビューしてまだ半年足らずの姫井沙耶を、対戦するに値する一人前のプロレスラーだと、ユカが認めた瞬間であった。


 そうなれば手加減無用と、コーナーから脱兎の如く飛び出して沙耶へ向かって走り出すユカ。当然沙耶も迎撃すべくキャンバスを蹴って駆けていく。

 ちょこまかと小賢しく、小動物のように動く標的ターゲットを捕らえるべく沙耶は腕を伸ばす。だがそれを嫌ったユカが腹に一発、突き上げるように爪先蹴りトゥキックを入れ相手の勢いを停止させた。


 呼吸もままならず、目を向いて悶える沙耶。


 そんな彼女の姿に一切情をかける事なく、髪を掴み強引に正面へ向かせたユカは、無慈悲にも二発三発と鋭い肘打ちを叩き入れ、沙耶の頭の中を掻き回シェイクしていく。脳へ直接響く衝撃で彼女の意識は飛び、瞳の輝きは失せ視点も定まらない。ユカはとどめとばかりに両手を鎚に変え、背中へ一撃重いパンチを叩き込んで、辛うじて踏ん張っていた沙耶をキャンバスへ惨めったらしく這わせた。


 今までに経験した事がない大きなダメージを負った若輩者は、息も荒く自力で起き上がる事もできないでいた。それでもなお目の前にそびえ立っている、巨大な壁に歯向かわんと、身体を支える腕を小刻みに振るわせ立ち上がらんとする沙耶。


 だが無情にもユカは彼女の背中を何度も踏み付け、反撃の機会を呆気なく台無しにしてしまう。


 あまりにも悪辣としたユカの態度が憎らしいのだろう。これには地元のアイドルを応援する観客たちから、のブーイングが巻き起こった。普段はクリーンな《正統派》の試合をするユカだが、客の反応を見てスタイルを変える柔軟性も持っている。ぽっと出の新人には不可能な、試合経験を重ねてきた者しかできない芸当だ。


 盛大にブーイングを浴びたユカは、周りから向けられる敵意に委縮するどころか、逆に踏み付けている沙耶へコールを要求し観衆を煽る余裕すらあった。手拍子をして沙耶の名を叫ぶユカだったが、観客たちの怒りはますますヒートアップしブーイングの声量ボリュームも大きくなる。

 地元民の正直すぎる反応に、「やっていられない」とわざと諦めの表情を作りユカは、耳へかざした手を下げる。


 ユカの太腿に、もぞもぞとした感触が伝わってくる。

 何としても彼女へ報復したい沙耶が、持てる力を振り絞ってユカの身体を掴み、再び立ち上がらんとしていたのだ。可愛らしい顔をおぞましく歪め、少しずつ這い上がってくる沙耶の姿にユカは大いに感心した。


 自分の両足でキャンバスをしっかりと踏んで、憎きユカと対峙する沙耶の姿。ギラギラと闘志が宿るその瞳の輝きに観客たちは、彼女の更なる奮闘に期待せずにはいられない。

 殴られ蹴飛ばされてぼろぼろにされて尚、諦める事なく敵に立ち向かわんとする沙耶の根性に、ユカは「よし」と云わんばかりに満足気な表情をみせる。


 だが次の瞬間、ユカの顔が再び鬼と化した――

 

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