第19話 真夜中にて……
季節はずれの蛍のように、テールランプが選手移動用の小型バスの前を、二台三台と通りすぎていった。初老の運転手は気を配りながらも、平然とした態度でハンドルとシフトレバーを操りながら、速度を落とす事なく目的地へ向けて走行する。
試合を終えた選手たちは、到着地であるプロレスリングこまち事務所前へ着く間、三十分近く走っている高速道路以外、暗くて何も見えないので、疲労も相まって開いていた瞼も自然と閉じていく。
「ねえ、何か話してよ」
運転席から程近い、一番前の席に座っていた目の覚めたユカが、静けさに耐えきれず運転手に語りかけた。リングの上ではレフェリーとして、毅然とした態度を取る男でもある。
「何かって言われましても……」
「ここに勤めてから長いんですか?」
「そうですね、団体の旗揚げの時からずっとレフェリー兼運転手を続けています」
「というと十年くらいかな。短いようで結構長いですね」
「ですかね。何にせよ体力気力がないと、そして何よりも好きじゃないとこの仕事は続けられませんよ」
夜も遅い事もあり、前を走っている車も長距離トラックや高速バスなど大型車ばかりで、普通乗用車はあまり走っていない。
「ここに来る前は何を?」
「太平洋女子の選手用バスの運転ですよ。まだ景気が良かった時でしてねぇ、選手用だけでも二台所有してたんですよ」
ユカも古いプロレス雑誌で、以前に見た事があった。太平洋女子のロゴが入った赤と青の大型バスの前で、選手たちが一堂に介して記念撮影をした写真を。まさに女子プロレスの《帝国》と呼ぶに相応しい風格と佇まい、そして団体自体の上り調子を見事に表した一枚であった。となれば彼は二十年以上、この業界に関わっている事になる。
「凄いですね!女子プロレスを裏から二十年以上も、運転手さんは支えてきたんですね」
「ははは。支えてきた、といっても試合の事はあまり知らないんですよ。選手を如何に速く安全に、次の巡業地へ送るのが我々の仕事でした。あの頃は全国各地を巡っていましたからね」
太平洋女子全盛期の、
移動バスが道場兼事務所の自社ビルの前を一旦出発すると、ふた月ちょっとかけて三十ヶ所の試合会場を巡るため、家に帰れるのは年に数日だったという、まさに《地獄の巡業》と形容するに相応しい有様だ。これがこなせないという事は、興行のレギュラーから外れる――トップ獲りへの道が遠退くとあって皆必死だったと、体験者たちは昔を懐しみ笑い話のように語る。
「それが何故、太平洋女子を辞める事に?」
「辛気くさい話ですが、これも景気が関係してまして。会社の経費削減で私らドライバーがリストラ対象になったので、もうこれで辞め時かな、と思い退社したんです」
当時起こった世界的な経済不況もあったが、それ以上に太平洋女子自体の体力が衰え出した時期だ。
考えうる「斬新な」企画という企画はすべてやり尽くし、黄金時代を謳歌した、ベテランの域に達した選手で溢れ帰った太平洋女子は、彼女らの次に続くべくニュースターを産み出す事が出来ずに、次第にファンから飽きられ始めた。
それは他の団体も一緒で、対抗戦という《諸刃の剣》に手を出してしまった以上、対抗戦以外の興行に客がなかなか集まらず、体力――運営資金プラス集客できるスターのいない所は次第に潰れていった。
「それじゃあ、今の仕事は?」
「はい、結城悠さんが誘って下さいました。まだ新興団体故にレフェリーがいなかったので、バス運転手と同時に新しくレフェリーの仕事も始めました。何とか格好はついてますかね?私のレフェリングは」
「バッチリです」
彼の問いにユカは、迷う事なく指で丸を作りOKサインを出した。運転中でOKサインを直接見る事は出来ないが、彼女の明るい返事に自分のレフェリングが間違いないのを知ってうん、うん、と頷いて静かに喜んだ。
「今は以前のような長期の巡業はありませんが、それでも年に何度かは地方のプロモーターに請われての遠征がありますし、今のように限られた地域を巡回するやり方もあります。ひとりでも多くのお客さんの前で、自分たちの《プロレス》を観てもらう為に皆頑張ってますよ」
サッカーやバレーボールなど、スポーツ・エンターテイメントの選択肢が広がった現在、五十年前のようにプロレスは、必ずしもキラーコンテンツではなくなった。それでも観る人が、選手を応援する人がひとりでもいる限り、この格闘技と見世物の中間にある、曖昧で奇妙なスポーツジャンルは、決して無くなったりしないだろう――色物的発想からその歴史がスタートした女子プロレスは尚更に。
時間を忘れ、彼と他愛ない話を続けていたユカの目に、見覚えのあるコンビニエンスストアが飛び込んだ。こまち道場兼事務所から会場への移動の際には、必ず通る道の側にある目印代わりな馴染みの建物だ。これが見えたならもうすぐ長かったバス移動が終わる。同乗している他の選手たちも、申し合わせたように次々と起き出して、降りる準備を始め出した。
コンビニエンスストアが見えてから、五分も経たないうちにバスは、終着地であるこまちの道場兼事務所前へ到着する。
まだ疲労の残る身体を引き擦り、宿舎へと帰るユカの後を追ってくる靴音があった。騒がしい都会と違い、虫の声しか聞こえないような何もない場所なので、すべての音が耳へ入ってくる。
靴音の主は仁科であった。
『お疲れ様です、仁科さん』
自分も疲れているのにもかかわらず、目上の先輩に対し立ち止まって挨拶をするユカ。閉鎖的で村社会と揶揄されるプロレス界、人間関係を円滑に進める術はしっかり心得ている。
「おう、お疲れ。しかしまぁ、今日もしっかり働いたよなぁ」
「対戦相手をイスで、目一杯ぶっ叩いた事ですか?」
「殴るぞ。悠さんのいない間、現場監督として会場運営やみんなの試合を、チェックしなきゃならんからな。選手一本だけならどれだけ楽か」
こまちのエース兼現場監督である、結城悠が怪我で戦線離脱したため、彼女の次にキャリアのある仁科が代理で行っていた。選手の中には戸惑った者もいたがそこは身体で会話をするプロレスラー、リングに上がれば違和感なんぞ吹き飛んで普段通りの試合をお客さんに披露した。
「ユカちゃんは、宿に帰ってから何するんだ?」
「まずはお風呂に浸かってから、コインランドリーでリングコスチュームの洗濯です。衣装も二着しか持ってきてないので」
地方巡業での最大の悩みは、試合をして汗びっしょりのリングコスチュームの洗濯だ。これを怠ってしまうと、汗臭いコスチュームで試合をしなければならず衛生上にもよろしくない。幸い宿には大浴場の近くにコインランドリーが設置されており、ユカはもちろん、投宿している参加選手たちに重宝されている。
「まぁ人気選手が、汗の臭いを撒き散らしながら闘っていたんじゃ、格好つかないもんな」
「実は洗うのが面倒臭くて、そのままで試合した事もありますけどね」
「マジか?信じられねぇ!」
試合では誰にも劣らぬ天才ぶりを発揮するユカだが、ひと度リングを離れればずぼらでいい加減な性格。彼女の本性を垣間見た仁科はうへぇ、と渋い顔をした。
「いいか、コスチュームはちゃんと洗濯するんだぞ?それと――」
「?」
仁科からの《雷》が落ちるのかと、一瞬身をすくめるユカ。だがそうではなかった。
「後でユカちゃんの部屋に行くからさ、お酒を持って」
こりゃ、しばらくは寝かせてもらえそうにないな――これから部屋で起こるであろう光景を、想像したユカは苦笑いを浮かべた。
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