第二十五話 孤児

― 王国歴1129年-1134年


― サンレオナール王都




 三十五で結婚した姉は妊娠し、元気な子を出産することはかなり難しいだろうと以前から考えていた。だから彼女の方は割と早く吹っ切れた、というか元々諦めていたと言った方が正しい。


 それに対してザカリーはなまじマリー=アンジュと話が出来たものだから喪失感もかなり大きかったようである。


 高祖母ビアンカが自分自身のお腹に宿った子供が育たず亡くなってしまうことを三度も経験したと、僕はずっと後になって姉から聞いた。ザカリーと同じ白魔術師であった高祖母はもちろんその存在も感じていて、ぬか喜びの後には胎児や胎芽を助けてやれない自分の無力さをひしひしと感じたに違いない。


 その頃、ザカリーの元気がないことにクロエは何となく気付いていた。新婚ほやほやで一番浮かれている時期なのに、と不審がるクロエにも夫婦はその理由を言えなかった。それで彼女は薄々察していたのだが、一人胸の内にしまい、僕には何も教えてくれなかった。


 姉夫婦の仲は今までどおり良く、傍目には何も変わりなく見えたのである。


 マリー=アンジュの後、結局夫婦の間には子供が出来ることはなかった。歳が歳だけに姉はマリー=アンジュが自分にとって最初で最後の妊娠だという予感があったらしい。それからは姉とザカリーは子供の居ない夫婦二人だけの生活を楽しむようにしていた。




 そして何度か季節は廻り、年の瀬も近い冬のある日、夫婦は庶民の市に出掛けた。年末の買い物をする人々で市は大層賑わっており、混雑する大通りで二人は色々買い込んでいた。


 木彫りの小物を売る屋台で姉が足を止めた時である。ザカリーが急にかばうように彼女の腰を抱いて耳元に囁いた。


「ガブ、財布に気を付けて」


 そして姉は自分の後ろで突然甲高い子供の声を聞いた。


「いててて、何すんだよ!」


 大声で叫ぶというよりも声を抑えてうめいているのはまだ初等科低学年くらいの男の子だった。


 姉の驚いたことに彼の手には手提げ袋に入れていたはずの彼女の財布が握られている。その子の手首をしっかり握っているのは彼女の夫だった。


「何すんだよ、はこっちの台詞だ、坊主。妻に財布を返せ」


「ザック、乱暴は良くないわ。まだこんな幼い子供よ……」


「ガブ、盗まれたのは貴女の財布ですよ。子供だろうが、泥棒は泥棒です」


 そこで子供は姉に財布を投げて返したが、ザカリーは彼の手首どころか、反対の腕も掴んで拘束の手を緩めない。


「おいオッサン、放してくれよ。財布なら返しただろ!」


「現行犯だからな、盗んだものを返そうが、言い訳も謝罪も泣き落としも俺には通用しない。警護団を呼んで出るとこに出てもいいぞ」


 そこでザカリーは少年を引きずって商店の間の横道に入っていく。


「痛いってばぁ!」


「ザック、どうなさるの……」


 姉もオロオロしながらついて行った。


「お前も大騒ぎにしたくないだろ、この界隈で顔を覚えられてしまうと仕事もしにくいよなぁ」


「お願いします、通報したり俺をどこかに売り飛ばしたりだけは……見逃してください! 弟が待っているのです」


 そう必死で頭を下げる男の子に姉は既にほだされていた。粗末な身なりだが、それなりに清潔にしているその子は浮浪者には見えない。弟と言っても彼自身もまだまだ幼い少年だ。


「まあ、他にご家族は? どこに住んでいるの?」


「……」


「いきなり口が利けなくなったのか? それともお涙頂戴の作り話を考え中か?」


「ザックもいい加減にして。そんな威圧的な態度ではこの子だって何も言えないわよ。貴方、お名前は?」


「ドミニク。弟とフロレンスの家に住んでいます。他に家族は居ません。嘘じゃありません。何ならこれから施設で聞いてくれてもいいです。でも、俺が盗みを働いたことだけは内緒にしていてもらえると……」


 フロレンスの家は高祖父母の時代に設立された多目的施設である。家庭内暴力などで行き場を失った被害者を保護し、孤児院や託児所も兼ねている非営利団体なのだ。


 なんと設立者のフロレンスさんは高祖父の従妹に当たるのだ。僕達の祖先は偉大な人が多く、一族の誇りである。


「貴方たちはいくつなの?」


「俺は八つで弟のジョセフは五つです」


「まあ……」


「フロレンスの家に居るなら盗みを働かなくても十分普通の暮らしができるし、教育も受けさせてもらえるだろう?」


 ドミニクの話を完全に信じて、この兄弟に同情している姉に対し、ザカリーはまだまだ厳しい表情を崩さない。生まれてすぐ侯爵家に養子に入り、貴族として育ったが、流石平民の両親を持つ彼だ。


「コツコツと貯金しているのです。フロレンスの家なんてさっさと出て、弟と二人で暮らしたいから」


「言葉の使い方を間違えるな、貯金っつーのはな、汗水たらして働いて稼いだ金を貯めることを言うんだ」


「泥棒が職業だったら盗んだお金でもせっせと働いて手に入れたと言えますよね」


 そこで姉は吹き出し、ザカリーは目を丸くした。ただの屁理屈だが、ドミニクはなかなか賢い子供だった。


「生意気言うんじゃねぇよ……」


 姉はガサゴソと買い物袋の中を探して小さな紙袋を取り出した。


「これ、先程買った焼き菓子よ。弟さんや施設のお友達と一緒に食べてね。それからもう盗みはしないと約束できる? 私みたいな警戒心のないおばさんは恰好の獲物なのでしょうけれど……貴方に何かあったら弟さんが可哀そうよ」


「……はい」


「優しい妻に免じて今日のところは見逃してやる。この菓子がまだ暖かいうちにさっさと帰れ」


「ありがとうございます!」


 ドミニクはペコリと頭を下げ、人混みの中に消えていった。




「ガブ、貴女は甘すぎるよ。寒い中行列して買った焼き菓子だろ、もう売り切れて買えないよ」


「いいのよ。ザック、あの子を通報しないでくれてありがとう。中身のお金はともかく、この財布は両親から贈られた大事なものなのよ。良かったわ、貴方が気付いてくれて」




 それからというもの、夫婦は街に出る度に必ずと言っていいほどドミニクを見かけた。弟のジョゼフも時々一緒だった。姉はその二人に会う度にお菓子や果物、食べる物を分けてやっていた。ザカリーも二人の男の子と少しずつ仲良くなっていった。


 彼らは父親の顔を知らず、以前は母親と三人で貧民街に住んでいた。ドミニクによると数年前、母親が亡くなりそれ以降子供二人はフロレンスの家に引き取られたそうだった。母親の死因は恐らく薬物中毒だったろうと、わずか八歳の子供が淡々と言うのには姉もザカリーも衝撃を受けた。


 初めて夫婦が弟のジョゼフの方にも会った時、自分が時々スリを働いていたことを弟の前で言わなかったことをドミニクはザカリーに後で感謝した。


「やっぱりジョーに兄貴が泥棒だって知られたくなかったし。俺、神に誓ってあれ以来盗みはしていません」


「罪を犯していて、それを弟に知られたくないとは、お前もごくごく普通の善人の思考ができるんじゃねぇか、ドム」


「元々良い子ですし。施設では優等生で通っています」


「お前って……世渡り上手の小憎らしいガキだな。弟の方はお前に似ず、天真爛漫で素直だってのに」


「ジョーが誰にでも好かれて可愛がられる性格だということは認めますよ」


 ザカリーも、幼いドミニクが今までしてきた苦労を知って、彼に一目置くようになっていた。姉はいつもザカリーとドミニクの憎まれ口を挟んだやり取りを微笑ましく見守っていたものだった。




***ひとこと***

マリー=アンジュのことを乗り越え、夫婦仲良く暮らしている二人に新しい出会いが訪れます。

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