第八話 傷心


 姉が一人先に出勤してしまったので、僕とクロエは二人で馬車に乗った。


「今晩姉上の前でザカリーの話題は禁物だね」


「当り前ですわ、フランソワ。あの小生意気なザカリー少年はまだ若すぎて自分もお義姉さまに惹かれていることを認めたくないだけなのでしょう。もう少し彼も成熟すればお義姉さまの存在が如何に大事か分かる筈です」


「その時には姉上はもうオバサンだよ。今でも既に十分そうだけど」


「それがどうしたって言うのです? お義姉さまの覚醒が十四の時で、歳の差が十五もあるのはもう誰にも変えられないのですから。十年後、二十年後には歳の差もそう感じなくなるに決まっています」


 裕福でない男爵家で苦労して育ったクロエは社会の、特に貴族社会のしきたりや常識に反発することがあり、僕は時々自分の視野の狭さを思い知らされるのだ。


 それに僕は口では彼女に絶対勝てない。皆さんお分かりのように、結婚してからの僕は彼女の尻に完全に敷かれているのである。


 こんなクロエがどうして僕との交際を承諾してくれて僕は結婚まで漕ぎつけることが出来たのか、自分でも不思議に思うことがある。


 彼女自身は身分差と境遇の違いを気にしてか、最初は頑なに僕の誘いを断り続けていたのだ。この僕にも次期公爵という身分から少々傲慢なところがあったのも認める。クロエにもそれを指摘されて、完全に打ちのめされたこともある。


 でも僕にも何となく分かっていた。僕はクロエでないと駄目なのだ。身分の釣り合う良家の令嬢でもなく、僕には彼女しかいない。


 何? 僕とクロエのスピンオフが読みたい? よし、作者に頼んでみるとするか。僕もこんな実姉とショタ君の物語の語り手という割の合わないタダ働きよりも、カッコいい男主人公として脚光を浴びたいものだ。




 さて、その晩のことである。姉は母屋で食事を一緒に、というクロエの剣幕に負けて夕食の席に僕達と一緒についた。


 その後、居間に移動して家族皆でゲームをしたり、子供達は姉とお絵描きをしたりして過ごした。僕が子供達を寝かしつけに行こうとしたら二人共クロエにギュッと抱きついてしまった。


「お母さまの方がいいー!」


「ご本読んで下さい、お母さま!」


 ちぇっ。そしてクロエは子供たちを寝かしつけるために退出したが、目が姉をまだ離れに帰すな、と言っていた。僕は姉とカードゲームをしながら彼女が下りてくるのを待った。


 クロエが居間に戻ってきても、さりげなく何か適当な他愛ない話題をふったりしていたのだが、姉自ら本題に入った。


「二人が私に気を遣ってくれるのはありがたいけれど、別に私はそんなにしょげているわけでも気が滅入っているわけでもないのよ。でも正直、今晩の食事は楽しかったわ。少し気が晴れたというか……ありがとう、クロエさん、フランソワ」


「お義姉さまが良ければ毎晩でもいいのですよ。遠慮しないで一緒に食事しましょう。子供達も喜びますもの」


 姉はザカリーの面倒をずっと見てきたので小さい子供の扱いが上手だ。長男が生まれた時、彼を抱っこする姿など様になっていて、新米母のクロエが感心していた。一瞬僕達三人の間に沈黙が流れた後、姉は口を開いた。


「ザックももう十七ですものね。月日が経つのは早いわね。本当のことを言うと今朝のあれは……私は出来れば知りたくない事だったわ。彼が駆け込んでくる前から怒りに満ちた気は感じていたから……だから……」


「姉上……」


「貴方たち、えっと、その……事情は聞いた?」


「お義姉さま……」


 僕達が言葉を選んでいる間に姉は早口で続けた。彼女にとっては口に出すのも辛かっただろう。


「ザックが彼女と初めての夜を過ごそうとしたら私の幻影がちらついて、行為に集中出来なかったって言うのよ。それで、残念ながら彼女とは駄目になってしまったとかで……折角の思い出の夜も台無しね……」


「けれど、それは……」


 ザカリーの奴も折角の筆おろし、というか今まで童貞君だったろうというのは僕の推測だが……とにかく、記念すべき筆おろし儀式(仮)だったというのに……トラウマになって、以降不能になり兼ねない。男というものはそこまで繊細なのだ。


 確かにザカリーも彼女も気の毒だが、姉の気持ちを考えるとやりきれない。何と言ったらいいか、分からなかった。姉はうつむき加減だったが、泣いているわけでも悲しそうな顔をしているわけでもない。ただ、生気を抜かれたかのように無表情だった。


「また昨晩のような……その、女の子とねやに入る機会がザックに訪れる度に……私の幻が彼に見えてしまうのかしら。どうしたら幻が出なくなるのか、分からないわ。だって私は本当に何もしていないのですもの。総裁さまや魔術院の同僚にもとても聞けないわね」




 その夜姉が離れに引き取ってからクロエは僕に言った。


「ザカリー坊やもねぇ、身も心もお義姉さまに惹かれているのを素直に認められないのかしら」


「十七やそこらじゃまだ若すぎて無理なのかな、真実の愛を知るには」


 クロエに恋をして結婚し、ささやかな幸せを手に入れた僕は愛する彼女と一緒に過ごせる何気ない毎日がいかに貴重であるか身に染みて分かっている。


『私と結婚できたなんて貴方は幸せ者ですわね』


 クロエは事ある毎にそう微笑んで僕に言うのだ。




 特に今晩も僕は自分の幸せを噛みしめていた。


「クロエ、僕は何て運のいい男なんだろう。愛する君がこうして僕に毎日微笑んでくれて、素晴らしい子供達にも恵まれて」


「そうよ、貴方は幸運の持ち主よ」


 サクッと流されてしまった。今クロエの頭の中は姉のことでいっぱいで、僕と甘い雰囲気になるどころではないようだった。ちぇっ。




 それからザカリーはどうなったのか、女の子を抱く度に姉の幻像が見えていたのか、見えなくなったのか、それは定かではない。


 女断ちをした、ということはまず考えられない。しっかり目を閉じていたヤッていたに違いないと僕は見ている。それか、ものは慣れだ、幻として見える姉に惑わされても勃つようなスバらしい境地に辿り着いたのかもしれない。


 姉の方はと言うと益々根を詰めて仕事の研究に没頭していた。何か思うところがあったのだろう。魔法具だか魔法石をより長くもたせるように改良している、とは言っていた。




 ザカリーは貴族学院を出たら魔術師として王宮魔術院に勤めることが決まっていた。


 しかし騎士科の科目も取っていた彼は十八で卒業する直前に、自ら志願して騎士科の課程で国境警備団に二か月間研修生として加わった。国境警備団とはその名の通り国境付近の情勢を見極め、治安を守る騎士団である。不法出入国を取り締まるのも彼らで、近隣諸国との小競り合いが始まると真っ先に駆り出される。


 姉はその話をザカリーの養父であり職場の上司でもあるベノワ・ルソー魔術師から聞かされた。


「ザカリーは全く、魔術師として就職が決まっていると言うのにわざわざ騎士の見習いとして国境におもむきたいなどと……私や妻の言葉には耳も貸さず……ガブリエル様なら引き留められるかと思い、こうしてお話しているのです」


 姉には分かっていた。ザカリーは彼女を含めた魔術院の上部に反発して遠隔地での研修志願を出したのだ。


「ルソーのおじさまのご心配はもっともですわ。でもザックは白魔術で怪我人や病人もある程度は治療できますし、動物たちを使って長距離の連絡も素早くできるから考えようによっては国境での仕事には向いていると私は思うのです」


 ここで魔術院や姉が圧力をかけて彼の研修願いを取り下げようものなら彼はますますかたくなになってしまうだけだろう。


「しかし、ガブリエル様……貴女はそれでよろしいのですか? ザカリーが遠隔地へ二か月間も行ってしまうと……」


「よろしいも何も……ザックは意志を持った一人の人間で私たちの操り人形ではないのですもの……」


 姉は諦めたように微笑んだだけだった。




***ひとこと***

フランソワ君がカッコいい男主人公になるかどうかは疑問が残るところですが……次の連載はクロエとフランソワの話になる可能性が高いです。


さて、第五形態のまま話は続き、ザカリーくんはなんと国境の街へ飛び出して行ってしまいます。行き先は「色豪騎士」のマキシム氏も度々赴いていた西端の街ペンクールです。

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