6 始業

 よくわからないうちに朝礼が終わり、何をすればいいか困っていると、

「林さん、仕事の前にちょっとこれ書いてもらえますか。」

と近藤さんが書類のようなものを差し出してきた。


 書類は給料振り込みのための通帳情報を書くものと、個人情報保護に関する誓約書。それと確定申告に必要だと説明された紙の3枚で、これまでも多くの職場で書いたことのあるものだった。


 自分のデスクであらかじめ持ってきていた通帳と印鑑を出し必要事項を記入し始めると、隣でパソコンに向かっていた門田さんに男性社員が近づいてきた。


 「林さんみたいな若い子が入ると門田さんももうおばさんだなあ。がんばれよ、お局ー。」

 まるで高校生が好きな子をいじめるような言い方で発されたその言葉に、門田さんは苦笑しながらも瞬時に笑顔で返す。

 「もうー。なんてこと言うんですかー。私だってまだまだ若いですよー。」

 

 男性社員は「ふふん。」と喜びながら門田さんのすぐ後ろの席に帰っていく。その背中には30代らしい肉がついており、あなたの方が「おじさん」だよ、と思った。


 門田さんは黒のセーターに黒のミニスカートという一見スタイリッシュな恰好だが、小柄でかわいらしい顔つきの門田さんが着ると柔らかくなる。何よりきれいな茶色のストレートヘアに似合っている。門田さんは私の目には30代前半かひょっとして20代にも見える。決して「おばさん」ではない。


 なんだかすっとしない気持ちのまま書類を書き終わると、保険証をコピーするように近藤さんに言われた。


 最初の挨拶でも言ったように私は事務自体初めてなのでコピー機の使い方もわからない。コピー機の前で困っていると近藤さんが来て、


 「ああ、そうか。すみません。コピー機の使い方お伝えしてなかったですね。」とひとつひとつ丁寧に使い方を教えてくれた。


 同じ男性の公務員でもこうもちがうのかと、さっきの男性と近藤さんを比べてしまった。

 

 書類を確認した近藤さんは

「よし、これで提出していただく書類は以上です。門田さんに何かやることがないか聞いてみてください。」と言い、自分の仕事に取り掛かり始めた。


 言われた通りに門田さんに尋ねてみようと近づくと、門田さんはパソコンに向かっている途中だった。

「んー、ごめ、ん。やって、ほしいことは、いろいろあるんだけど。ちょっと、まって、ね。」と忙しそうにタイピングのすき間に答えてくれた。


 ある程度打ち終えたらしい門田さんが吉岡さんを呼ぶ。

 「林さんになんかやってもらうことあるかな?わたしちょっと忙しくて、教えながらできそうにないんだよね。もし何かあったらやってもらって。」


 「え、いいんですか。こっちもやってもらうこと山ほどありますよ!ちょっと午後から送付用のパンフレットを倉庫に取りに行こうと思うので、それ用の宅配伝票を書いてもらえますか?ちょっと多いですけど」

と、吉岡さんは自席から宅配伝票の束を持ってきた。


 「わかりました。」と受け取り、指定されたあて名を記入していく。


 記入しながらなんだか幸せな気分になった。椅子に座り、自分の机があり、字を書くだけで時給が発生している。そのことに幸福を感じてしまう自分がいる。


 思えば、喫茶チェーン店でバイトをしていた時は勤務時間ずっと走っていた。ひっきりなしになる呼び出し音とともに電光板にその机の番号が表示される。机に行って注文を聞いている間にも他の机の呼び出し音や「ご提供おねがいしますー!」という料理の提供をせかす厨房からの声、他にも来店を知らせるベルの音やレジの呼び出し、席の片付けなど立ち止まる隙は一ミリもなかった。


 それなのに古株のパートさんからは

「林さんはなんでいつもそんなゆっくり歩いてんの?ちんたらちんたら、マイペースに。」

と言われることやフロアでのトラブルを店長に伝えると、

「いや、どういうこと?もう一回説明して。何言ってるかわかんない。早く。」

とうんざり顔で言われることが日常茶飯事だった。


 「わかりました。すみません。」

といい、掃除のふりをしてフロアに出るが、フロアの様子はにじんで見えた。そのたびに、

 「みんなわたしのことを思って言ってくれているんだ。落ち込むことはない。次に生かそう。」

と思うのだが、バイトからの帰り道や昼ご飯を食べているとき、シャワーを浴びているとき、寝る前、ふと怒ったパートさんの顔やあきれた様子の店長の顔が脳裏をよぎり、胸がひゅっと冷たく苦しくなるのだった。


 あの時の1時間は、こうして誰にも呼ばれずに、責められずにあて名を書いている1時間よりずっと安く買い取られていた。


 



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