25 3月29日
3月29日。今日はなんだか庁内がそわそわと落ち着かない。吉岡さんに聞くと、今日は来年度の配属が発表される日なのだそうだ。こんな直前に発表されるものなのかと正直驚いた。
今年は3月31日と4月1日が土日なので、今年度は今日と明日の2日間しかない。私がここで働くのもあと2日間だ。
9時をまわると、職員が一斉にパソコンを覗きだした。あちこちで悲鳴や歓喜の声が聞こえる。
うちの課では3人ほど移動があったようで、課長もその一人だ。周りの人の話から察するに課長は来年から財政課に配属になったようだ。
以前門田さんが、県庁は原則下に行くほど急がしいと言っていたのを思い出す。財政課は1階だ。観光課はかなり忙しいように見えるがそれよりも忙しいなんて、少し課長が気の毒になる。
課長は肩を落とし、見るからに落ち込んでいた。昨日自分は村元さんに作業室行を命じたばかりじゃないか、そう思った。そういえば昨日の帰り際、課長が私の机の横に来て「家族とも部下ともうまくいかない。ビジネスもうまくいかない。どうしたらいいんだよ。」とつぶやいたとを思いだした。もしかすると、それは残酷なことをした言い訳として私に聞こえるように言ったのかもしれないが、私は聞こえないふりをして帰った。
入口近くが賑やかだ。目をやると見たことのない男性がにこやかに部屋に入ってくるところだった。清潔感のある髪型に仕立てのいいスーツ、どう見ても偉い人だ。
その人は課長に近づいて肩を叩いた。
「財政になったらしいな。今のうちに休みとっとけよ。財政は春、秋は休みなしだぞ。」
さらにうなだれる課長をしり目に、その人は周りの人ににぎやかに話しかけ、去って行った。
「久々見ましたね。部長。」吉岡さんが言った。
部長だったのか。部の部屋のとなりに部長室はあるが、いつも不在という札がかかっていた。かなり忙しいのだろう。
そのとき、私は何を思ったか廊下に出てその人を追いかけていた。
「あの!部長、すみません!」
部長が驚きながらも立ち止まってくれた。
「私、臨時職員の林と言います!ちょっとご相談したいことがあって…」
私は村元さんが隔離されていることを部長に説明して、この状況をどうにかしたいと説明した。告げ口みたいで罪悪感はあったが、現状を変えるにはそういってはいられなかった。それに部で一番偉いとされているこの人ならわかってくれるんじゃないかという淡い期待があった。
私が説明を終えると、部長は私の顔を見つめ
「林さんはなんで臨時職員なんだい?まだ結婚もしてないんだろう?」
と言った。その時点でもうだめだと分かったが、私は答えていた。
「教師になりたくて、教員免許を取るために通信大学に通いながら働くためです。」
「資格を取ることは女のたしなみだからね。がんばってね。」
部長は微笑みながらそう言い去って行った。
私は自分の人生がバカにされたことよりも、やはり分かってもらえなかったことの方がショックが大きく、悔しかった。
廊下でたち尽くしていると、部屋が何やら騒がしいことに気が付いた。
部屋に入ると、観光課の全員の視線がある一点に向いていた。それは座っているチーフに対して怒鳴っている村元さん。
「林さん!どこいってたんですか!ちょっと大変なんですよ!」私の姿を見つけた吉岡さんがこそこそと駆け寄ってくる。
「…何があったんですか?」私は恐る恐る聞いた。
すると焦った様子の吉岡さんが早口で話しだした。
「実は、村元さんが昨日に引き続いて、地下から作業室に荷物を運ぶ仕事をしてくれてたみたいなんですけど、腰を痛めちゃったみたいで。それでチーフに上でデスクワークをさせてくれって言ったんみたいなんですけど、チーフはそれを無視して作業室の掃除をしろって。それで村元さんが怒っちゃったんです。」
吉岡さんがそう言い終えた瞬間に村元さんの怒鳴り声が響いた。
「県庁はこんなにブラックなのかよ。腰が痛いって言ってますよね?もう辞めます!」
するとチーフは
「だから、作業室で座って掃除すればいじゃないですか。」と冷たく言い放った。
いつの間にかその隣にはにやついた課長がいる。「そうはいってもあと二日で辞めるわけにもいかんだろ?」この事態を面白がっているようだ。
「もう辞めます!」激昂してその言葉を繰り返す村元さんの様子に、他の課の課長がやってきた。
「どうしたんですか?ちょっと外で話しましょう!」と3人を連れて廊下へ出ていった。
1時間後、他の課の課長と一緒に帰ってきたのは村元さん以外の2人だけだった。
気まずい空気の流れる観光課の沈黙を破ったのは「おじさん」男だった。
「あれ、村元さんは?辞めちゃったんすか?」半笑いでそれを言う様子からは、きっとそれを冗談で言ったのだということが伝わった。
しかし、課長は難しい顔でうなずいてデスクに戻った。チーフがみんなの方を向いてこういった。
「村元さんはあのまま帰られて、今日で退職という形になったので、皆さんそういうことでお願いします。」
そして、チーフはそのまま私と吉岡さんを廊下に呼び出した。
「まあ、そういうことだから。村元さんがいきなり辞めてすみません、ありがとうって伝えといてくれって言ってたよ。」と言った。そして、小声で「まあ、こっちからしたらいない方が2人も仕事しやすいよね?」と言い去って行った。
吉岡さんが横から私を見つめているのが分かる。しかし私はそれに気づかないふりをして、ちょっとトイレに行ってくるねといい、その場を離れた。
トイレに入った私は石鹸をつけてごしごしと手を洗い始めた。
…結局何もできなかった。村元さんは自分が隔離されていたことに気づいただろうか。腰が痛くても仕事を変えてくれない職場だと思っていた方がまだましだ。どうか村元さんの心の傷が少しでも浅くありますように。
そう心で繰り返していると、胸にぽっかり穴が開いているのに気が付いた。久しぶりの感覚だった。村元さんが来てから、心にひゅーとすきま風が忍び込むことがなくなった。
恐ろしくなった。私は村元さんのことを本当に考えられていたのだろうか。
うまくいかない人間関係の中で、いまいちやりがいを感じられない仕事。自分の存在価値、生きている意味が分からなくなり胸にすき間風が入る。そんなときに村元さんは私の前に現れた。
困っている、助けてあげなくちゃ。その思いは私にやりがいを与え、存在価値を見出した。村元さんが現れてから私が生き生きし出したのはなぜか。
私は気づいてしまった。村元さんをあざ笑い、侮辱することで、自分は正しい方だ、頑張っていると相対的に思い込んだり、村元さん以外の人で連帯感を持とうとする職場の人たちを心底憎んでいた。けれど、私も同じじゃないか。村元さんを通して自分を見ているだけだった。
何度も石鹸を取り、ごしごしと手を洗う。しかし、どれだけ水で流しても私の手はひどく汚れている気がした。
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