27 消化

 県庁での勤務最終日はあっけなく終わった。


 門田さんの時のように17時を回ると全員が椅子から立ち上がり、大きな円を描いた。違ったのはその円が他の3つのそれぞれの課でも描かれていたことだ。


 観光課から別の課に配属になる3人の挨拶は課長から始まった。課長のそつのない挨拶が終わると、若い2人の職員がそれぞれ、「観光課のパッションを引き継いで別の課でもがんばります!」というようなことを言った。


 それが終わると、私たち臨時職員に挨拶の順番が回ってきた。

 吉岡さんは、社会人経験をここで初めて過ごし、大変なこともあったが勉強になったと言った。次は私の番だった。


 誰もが協力して働ける職場をつくりましょう、最後の挨拶で私はそういう予定だった。しかし、いざ全員にみつめられると思ったように言葉が出なかった。ドラマの最後のようにみんなの心に残るセリフを言って去る、そんなうまくはいかないものだなあと考えながら気づけば私は息が吸えなくなっていた。



 目覚ましが鳴る。

 出勤しなければ。そう思った瞬間、今日は土曜日であることに気が付いた。


 昨日、過呼吸になりかけた私は吉岡さんに支えられながらなんとか立て直し、いろいろと勉強をさせていただきありがとうございました、と言ったような挨拶をして帰ってきたのだった。


 水を飲もうと流し台に近づくと、トマトの空き缶に鮮やかな花が生けられていた。昨日、挨拶の後にもらったものだ。花束にはユリやガーベラなど大ぶりな花が多く、缶詰は何かの拍子でひっくりかえってしまいそうだった。


 もう県庁に行くことはないのか。そう考えながら私はもう一度布団にもぐった。



 それから長い間、私は働かなかった。

 どんな求人を見ても村元さんの顔や課長の顔がちらついて、応募する勇気が出なかった。


 がんばって応募し、面接にこぎつけても、

「臨時職員をされていたということですが、あなたはそこで何を学んだんですか?」などと聞かれると、そこから言葉が発せなくなる。


 そんな私を郷はあたたかく見守ってくれた。働かずに凝った料理ばかりつくる私に「君の手はこんなにおいしいものを作ることができるんだね。」と感心し、手を握ってくれた。



 一方、私は何を食べても味がしなかった。何かが胃の中に落ちていく感覚が嫌だった。


 その時、私は「まだ県庁での経験が消化できていないのだな」とすとんと思い、妙に納得した。県庁での思い出は私の中にまだかたまりで存在している。それを少しずつ少しずつ咀嚼しなければきっと私は次のものが食べられない。


 私は県庁での出来事を少しずつ少しずつノートに書き記していった。時には思い出と正対することができずに何日か寝込んだこともあった。書いていると、全ては私の主観を通して見ていることでしかないのだなと当たり前のことを思ったりもした。


 外側からどろどろと溶かしていくうちに、自分の汚さを目に突き付けられた時もあった。人の優しさに触れた時もあった。


 その全部を溶かしきった時、ほとんどはそのまま流れていったが、その一部はたしかに私に吸収された。私の心の穴から漏れ出る空気は前よりも少なくなっていたし、ふさいでいる壁は自分で手にしたものだと思った。


 今日から、塾の講師をする。あれからぴったり3か月だ。


 私には挑戦したいことがある。

 生きることは人を認めることだ。自分を認めることで、他者も認めることができる。そんな社会を創りたい。

 けれども私にはまだ穴が開いている。これを自分で埋められた時、何をしたいと思うのか。それを確かめたい。


 震える膝にぐっと力を入れ、いってきますと言うと私は久しぶりの外の空気をぐっと深く吸い込んだ。

 



 

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