12 フリーター入門

 頭が重い。


 日曜日に目を覚ますと、よく眠ったはずなのに全身に倦怠感があった。


 平日の疲れが今になって出たのだろう。隣で眠っている郷を起こさないように起きだしてお湯を沸かす。カップにインスタントの粉を入れる。お湯を注ぐと朝の香りが一気に広がった。


 カップを持ち、机に座りパソコンの電源を入れる。

 昨日は郷と出かけていたため、あまり勉強はできていない。今日少しでも進めなければ。もう古くなっているパソコンは起動にかなり時間がかかる。少しずつ目を覚ます画面を眺めていると「もうちょっと寄ってくれる?」という声が頭の中で聞こえた。


 まただ。郷と電車に乗っている時やご飯を食べている時、髪を乾かしている時など、ふとしたときに廊下で言われたことや、課長のあきれた顔がよみがえる。


 金曜は思いのほか楽しい飲み会で軽くなっていたはずの心も、何度も仕事の失敗を思い出すたびに重く暗くなっていく。頭の中で流れる映像も最初は課長に怒られたことだけだったのに、今は廊下で言われたことや飲み会で私が話しているときにつまらなそうにあくびしていた男性の顔、何度言っても覚えが悪い私に少しイラっとした様子の門田さんと増えていく。自分で気づいていなかった、いや気づかないようにしていた失敗が1つずつ目の前に出されていく。


 頭の後ろが重い。


 教科書を開く。私が通信大学で受講しているのは国語の高校免許が取れるコースである。


 私は本当は、お笑い芸人になりたかった。芸人になることが自分の使命だと感じることが幾度もなくあった。しかし、おとなしく、ましてや女の私がお笑いをやりたいなどと周りに言えるよしもなかった。


 少しでも近い世界へ、と番組制作会社への就職を目指し東京で就活していたのだが、就活の合間に見に行く劇場は私にとっては劇薬でお笑い芸人への夢を熱くするばかりだった。


 私は覚悟を決め、内定をもらった会社に断りの電話を入れ、家族や郷、友人にも就職はせずにフリーターになり、お金を貯めて上京すると告白した。ただ、大学の教授やバイト先の人、顔見知り程度の友人と卒業後の話になった時は東京の番組制作会社に勤めるのだと嘘をついた。


 小さなころから自分の発言が未来と矛盾が生じないように慎重に言葉を選んできた私にとって相手が違和感を抱かないように嘘をつくのは簡単なことであった。


 しかし、相手の「実は僕の息子も東京で同業をしていてね、本当に体にだけは気をつけるんだよ。」「すごいね。がんばってね!」「応援してるよ!」という嘘のない言葉の数々に私の中の何かがすり減っていった。


 フリーターになってからも、バイトの面接に行くたびに「なんで就職しなかったの?」「就職すればいいのに。」と言われることが辛かった。どうしても本当の理由は言えなくて、また何かをすり減らしながら出まかせを語っていた。


 フリーターになって数カ月した頃、ふと教師になりたいと思った。


 昔からもし芸人じゃなければ教師になっていたのではないかと考えていた。それは、芸人と教師が似ているからということもあるし、その2つの職業なら私は死ぬまで飽きずに続けられると思ったからだ。


 わからなかった。教師になりたい理由はたくさん出てきたが、それがバイトの面接で語るような嘘と違うものなのか、今度は自分を騙すために嘘を言っているのではないか。本当に教師になりたいのか、芸人から逃げたいだけじゃないか。本当はもう限界かもしれない。周りの人に嘘をつきたくない。だけどそれは本当に自分が望む道なのか。



 郷に電話をかけた。


 授業の中で教授が言っていたことを思い出す。「21世紀を迎え、豊かになった社会では個人は多くの自由が与えられている。しかし、人間と言うのは不思議なもので不自由だった時には自由を求めるのに、自由を与えられれば選択する責任から逃れようと不自由になろうとするんだよ。それを『自由からの逃走』と言うんだ。」

 

 私は何が正しいのか郷に示してほしかった。それは自分の人生への責任を放棄しようとしたことに他ならなかった。


 「わからない。どうしたらいいんだろう。」


 「うーん。それは君が決めることだよ。後から考えてどちらが良かったのかも君が決めることだよ。ただ一つ言えるのはどっちにしても始めてみないと何もわからないということで、始めることが一番大切だよ。」


 それは私の望んだ答えではなかったけれども、一番私を勇気づける言葉だった。


 私は教師を始めることを選んだ。


 教員免許を取る方法を調べ始めると、一番安いのは通信大学での勉強だった。その授業料は目指していた芸人養成所の入学金とぴったり同じだった。きっと同じなのだ。何が正解か、自分の本当の気持ちはわからない。けれど、ただ今始めることより大切なことはない。





 『教職入門』と書かれた教科書を開く。課題によると、明治期以降の教育政策を2000字のレポートにまとめなければいけない。以前にネタを書いていたのと同じ様式上に教育政策を時系列に打ち込んでいく。いきなり2000字にはまとめられないから、まず要点を抜き出すことから始めていくのだ。


 画面の半分が埋まり、郷が起きだした頃、いつの間にか瞼の裏の課長は消えていたし頭痛も少しは良くなっていた。

 


 


 

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