13 女
いつも自転車で通る道をバスの車窓から眺める。朝の空気に青く澄み渡る空は私の体調とは対照的だ。
下腹がズンズンと重い。昨日えらく頭が痛かったのはこのせいか。景色より一つ前にピントを合わせると、むくんだ白い顔がこちらをだらりと見ていた。
これでは自転車に乗って通勤するのは無理だと思いバスに乗ったのだが、座席に座った瞬間に痛み止めを忘れたことに気づいたのだった。引き返そうかとも思ったが、田舎町のバスは1本逃すとその後は1時間後だ。諦めて外の景色を見て気を紛らわせることにした。
いつもより少し早めに県庁に着いた。まだほとんどの人は来ていなかった。
ポットにお湯を入れに給湯室へ向かう。給湯室は廊下を少し行ったところにある。廊下の端から同じようにポットを持った女性が歩いてくる。同じタイミングになりそうだったのでお先にどうぞと手で示すと、女性はお礼を言い小走りで給湯室に入っていった。
入り口に並びつつ、お湯を溜めている彼女の後ろ姿を眺めているとこの女性も始業前にこんな仕事をしなければならないことを不満に思ったりするのだろうかと思った。
ポットのお湯入れ、資料の配布、コピー機の用紙の補充など、始業前にしなければならないことはたくさんある。始業後すぐ職員がスムーズに仕事できるように、という理由でそれらは臨時職員が始業の前にやることになっていると門田さんが言っていた。
ポットにお湯を入れて部屋に戻ると、部屋にはまだ人はいなかった。
コピー機に用紙を入れていると、やっとパラパラと人が来はじめた。
「おはようございます。」
男性職員の多くは「おはようございます。」といっても「ういす。」としか言わない。
始めは私が臨時職員だから「ういす。」なのかと思っていたが、彼らは他の女性社員にも「ういす。」と言っているようだ。どうやら私が臨時職員だからではなく、女だから「ういす。」なのだと分かり、腹部の痛みが増した気がした。
私に「ういす。」と言った社員が「おはようございます。」と言うのが聞こえた。男性社員が来たのだ。その社員は「おはよう。」といい、そのままこちらに向かってきた。
ごほん、と咳ばらいをする。翻訳すると、用紙を入れるためにコピー機のトレイを開いているのが邪魔だからどけ、である。入れようと思っていた用紙を横に置き、ズンズンと脈打つ腰をかがめトレイをしめる。何も言わずにゆっくりと通り過ぎる背中に、すみませんを言わないことでしか抵抗ができない自分に腹が立つ。
後ろからパタパタと足音が聞こえて振り返ると
「ごめん!林さん!月曜だから保育園に布団持って行かないといけないのに忘れてて、一旦家に取りに帰ってたら遅くなっちゃって、ほんとごめん!」
門田さんが両手を合わせながら小走りでやってきていた。けれど、門田さんは何も謝ることはない。今が本来の出勤時間なのだ。それでも職員は半分も集まっていないのだが。門田さんは毎朝始業前の仕事をするためにだいぶ早く出勤しているようだ。
申し訳なさそうな顔に全然大丈夫ですよ、と告げた後、ふと思いだし小声で切り出す。
「あの、申し訳ないのですが、痛み止めとか持ってませんか?」私の様子だけでどういうことか察したらしい門田さんは同じく小声で
「大丈夫?痛み止めは持ってるしあげるけど、ここ生理休暇もあるから今からでも休む?」と言う。少し考えたが、大丈夫です。ありがとうございますと言い、門田さんの差し出してくれた痛み止めをもらう。
それを水筒のお茶で流しこみながら、ここまで痛みがでればすぐには薬も効かないだろうと考える。やはり休むか?いや、でも生理休暇は誰に申請するのか。臨時職員の担当の近藤さんか、有給を申請するときと同じ課長補佐か、ここで一番偉い課長か。全員男性だ。彼らに「生理で辛いので休暇をください。」とでもいうのだろうか。誰に言ったとしても休暇を取った後はその3人に「生理休暇」と書いた休暇申請書が回覧されるはずだ。
体中の鈍痛と男性社員達に自分が生理だと告げ知られることを天秤にかけたが、生理休暇を取ることはどうしてもできなかった。生理という現象は決して恥ずかしいことではない。けれどもそれを人に知られるかどうか、そこを恥ずかしいと思うかどうかの権利は私にあるはずだと思った。
朝礼が終わる頃、相変わらずの倦怠感はあるが少しだけ痛みも増しになった。
門田さんが
「他の臨時職員さんに挨拶に行こうか。」と言った。
「先週行けばよかったんだけど、私も忙しくてついていけなくて遅くなっちゃったけど。」と言いながら、横長の部屋の端を歩いていく。
まず初めにとまったのは、観光課の島群から2つ先の島の端に座っていた女性の基だった。
「こちら産業観光課の臨時職員の清水さんです。」と門田さんが言ったので慌てて、
「先週から臨時職員として勤務しております林と申します。よろしくお願いします。」と言った。
清水さんはショートカットに落ち着いた赤色のカーディガンを着て、穏やかそうな笑顔で、「観光課は忙しいですよね。大変だと思うけど一緒に頑張ろうね。」と言ってくれた。
門田さんは清水さんにペコリと礼をして、また部屋を進んでいく。次に止まったのは清水さんの後ろの島の端に座っている女性のもとだった。
「こちら文化観光課の臨時職員の今井さんです。」
私が自己紹介をすると、今井さんはボブを揺らしピンクのセーターから出る両手先を重ねながら
「よろしくお願いしますね。」と言った。
次に門田さんが止まったのは、私たちのデスクがある方向から見ると一番奥にある島の端に座っている女性の前だった。その女性はあまりにもスーツの面々から浮いていた。毛先のくるくるとしたロングの巻紙に長いまつげ、服装はキレイ目なオフィスカジュアルだったが、一瞬で頭に『ギャル』という文字が浮かんだ。そんな私をよそに門田さんは「グローバル観光課の臨時職員の大家さんです。」とさらっと紹介するので、なんだか緊張しつつも自己紹介すると、「歳近い人入ってくれてほんとに嬉しい!困ったことあったら何でも言ってね!」と満面の笑みで言われ、警戒心が瞬時にほどけた。
自席に戻りながら、門田さんが課の配置などを教えてくれた。要するに、この横長の部屋の廊下から見て一番右の3つの島が私の所属する観光課である。そしてその左隣の3つの島が産業観光課、その隣の2つの島が文化観光課、そのまた隣の2つの島がグローバル観光課であり、4つの課合わせて、「観光部」という部になるそうだ。そして、観光課はみんな観光課と呼ぶが正式名称は観光企画課と言って、観光に関するイベントや催しの企画を立てたり広報を行ったりする、いわば花形の課だそうだ。そのため、4つの島の中でもとりわけ忙しく臨時職員も門田さん、吉岡さん、私と3人もいるのだという。
部や課の名前や他の臨時職員さんの名前を覚えられるか不安になり、それぞれの顔を思いだしてみる。優しくて明るくて癒される笑顔。
物理的力がものを言っていた時代、女性は男性社会で何とか自分の存在価値を作ろうと周りに気を配り、美しさを求めていったという話を思い出した。
おばさんと言われても笑顔で受け流すこと、挨拶をすること、小走りで駆け寄ること、いつもきれいでいること、笑顔を絶やさないこと…県庁で働く姿が昔の女性たちと重なった。パソコンで仕事をするようになった現代でも女性は常に自分の存在を容認してもらおうとしている。
私たちにだって不機嫌でいる権利がある。再び強くなってくる腹痛に顔をしかめながら息巻く吉は、これから起こるさらなる不条理を予想もしていなかった。
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