第四章:いつもの場所で待つのはきっと変わらないあなたのはずだから

1:疑いを訊ねるなんて

 空が薄く朱に染まり始める、夏の遅い夕方。

 いつも通り、クチナシの花が香る、木漏れ日に明るい雑木林を抜ける。

 いつも通り、クリーム色の外壁のあちこちが剥がれ落ちてしまった館が出迎えてくれた。

 入り口をくぐると、お気に入りの壁際に背中を預ける先客が文庫本から顔を上げて、太陽のようににっこりと微笑んでくる。

「こんにちは、篤くん」

 いつも通り、自分の知らない制服の裾からキレイな足を延ばして、自分の知らないいつもと同じ表紙の文庫本を手にしている。出会ってひと月の間、ずっと同じ本を持っていて、どうやら読書はがはかどっていないことがわかる。

 何も変わらない。

 だから、

「こんにちは、富士崎さん」

 自分も十全に努力して、何も変わらない笑顔を返すのだった。


      ※


 大見倉先生から「近づかないでくれ」と言われていたが、自分は館へ足しげく通い続けていた。

 なにも、先生の真剣な心配を無下にしたいわけではない。

 どうしても、確かめたいことがあるから。

 端的に言うと、自分が好きになった彼女の、本当のことについてだ。

 館によって、自分をこの場に呼び寄せる『疑似餌』のような役割を担っているのかもしれないだとか。

 だとしたら、七年前の被害者と同じ名前なのはどうしてだ。

 同一人物なのだろうか、そうではないのか。

「どうしたの? 座らない?」

 聞きたいことはいろいろあるようで、たった一つの言葉で解決する内容だ。

 あなたは、何者なのか。

 たったその一言なのだが、

「ああ、うん」

 その一言を問う勇気が持てず、幾日も経ってしまっていた。

 踏み込めないままぐずぐずしている自分を情けなく、けれど仕方がないだろう。

 彼女と、彼女と会えるこの場所が、壊れてしまわないか。

 これに尽きる。

 いまの自分になによりも大切なものを、全て失ってしまうのではないだろうか、という恐怖だ。

 富士崎さんが、疑われるたことに傷ついてしまうのではないか。

 怒ってしまうのではないか。

 それよりも恐ろしいのが、一緒に居てはいけない存在であるとわかってしまうのではないか。

 いずれにしろ、いままで『ただ一緒にいた』だけの自分にとって『彼女の自分への信頼』を信じることができなくて、だからぐずぐずとしてしまう。

 いつもと同じか彼女の隣に腰を下ろして、いたずらげに笑う彼女に、いつもと同じように微笑み返す。

「ねえ、気付かない?」

 こちらの苦悩に気付いていないのか、敢えて無視をしているのか。どちらかわからないが、身を乗り出してこちらへぐっと顔を近づけてくる。

 気付かないかと言われたって、こうまで無防備に接近されると、潤む目もキレイな肌も濡れている唇も、全部が新発見でどれがなにでもうああ……!

 と、近付くことで濃くなったクチナシの香りに混じって、

「……プールの臭いだ」

 塩素の、鼻を突き抜けるような刺激臭が漂う。

 太陽のような笑顔が、すこし温度を上げて、

「正解! ふふ、匂いでわかるなんてワンちゃんみたいね。今日、体育の授業だったの」

 言われてみれば、黒髪もいつもより乱れているし、艶も欠けている気がする。

「それでね」

 近い顔がまた少し近づけられ、もう鼻先が触れそうなほど。吐息を感じられるほどの距離となり、

「いま、下は水着なんだ」

 ブラウスの襟元を広げて、紺の生地を見せつけてくる。

 いや、どうして? 濡れて、気持ち悪くないの?

 なんて疑問は、鎖骨と薄く湿る水着の諸々曲線に、沸騰蒸発してしまい、

「いや、あの、えっと……」

 言語野も爆発してしまった。

 視線も言葉も右往左往させる自分に、富士崎さんは「あはは」と笑って距離を取り、迷いなくブラウスのボタンを外し始める。

 こうして水着鑑賞会が始まってしまい、今日もまた、疑問を確かめることなく時間切れになってしまったのだった。

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