3:七年前の当事者
夏の熱射で膨らむ空気を、ペダルを蹴りつけて自転車で掻き分けていく。
平日の正午。学校を自主休校して目指しているのは、大見倉先生に連れていってもらったとんかつ屋だ。
どうして授業をサボってまで食事処を目指しているかというと、昨日の、踏み込んだ先で豊吾さんから得た回答のため。
訊ねた自分へ、
「七年前にはあたし、まだここに所属していないんだよ」
という、残念極まりない結論と、
「班長は詳しいはず。なんせ、七年前も担当していたからね」
という、確かな展望を示されたのだ。
それなら、と豊吾さん経由で予定を調整してもらい翌日、つまり今日の昼に時間を作って貰えたから、こうして自転車を走らせている。
自宅からお店までは、自転車さえあればなんてことの無い距離だ。
けれど、今日はやけに元気な太陽に照らされて、汗はTシャツを薄く濡らしていく。
着替えが必要になるギリギリのところで目的地に到着し、自動ドア向こうに吹き荒ぶエアコンの冷風にあずかることができた。
店員さんに待ち合わせであることを告げると、奥の個室へ案内される。
ふすまを開けると、上着を脱いだ巌洞さんが畳に胡坐姿で、見上げがちに迎えてくれた。
「ずいぶん、慌ててきたようだな。汗だくじゃないか」
「いえ、今日はなんだか暑くて」
「そうか。どちらにしろ、水分は摂ったほうがいい」
冷えた麦茶を湯呑に注いで、メニュー帳と一緒に差し出してくれる。会計は勿論こちらの経費だから、というありがたいお言葉を添えて。
無愛想で体も大きいことから、初対面で怖い人だと思っていた。けれど、今までの少ないやり取りだけで真面目かつ気遣い屋だとわかるほど、良い人だとわかっている。まあ、そうでなければ、仕事中に煙草吸うは深夜徘徊するはの部下を、野放しにはしていないだろう。素行不良大人を許すほど優しくて、信じて仕事を任せるほど懐が深いのだ。
そんな大人への評をしながら、喉を潤し、野口英世二人でも若干足りない位のロースかつ定食をお願いする。
※
「七年前のこと、だったね」
一心地ついたところで、本題が切り出された。
「大見倉・小潮……彼女が地元で教師をしている、とは事前資料で知っていたが、まさか君の担任だったとは驚かされたよ」
「僕も、先生が巌洞さんと顔見知りとは思いませんでした」
「そうだね。この前に店の前で掴みかかられた通り、彼女は七年前の出来事からこちらのことをひどく敵視しているんだ」
固い頬が少しばかり緩んで、陰が差す。
「機関があの館を把握したのは、出会った時に話した通り、七年前が初めてだった。それで派遣されたのが自分なんだが、赴任した一週間後には状況は決着してしまってね。つまり、我々が関与できたのは末期の僅かな期間と、後始末だけ」
だから全貌を掴んでなどおらず、半分も理解したなどとはおこがましくも言えない状況にある、のだという。
つまるところ『機関』が把握している部分は、被害者は館の内部で何者かと接触し、最後には記憶が怪しくなる、という当初の説明から超える処が無い、ということ。
省みれば、先生の話でも共通の事象が起きていた。
七年前の被害者は、館に通って『彼氏』に会って。
最後には、友人である先生の顔も記憶することは怪しい状況に。
で、そのターニングポイントが、
「不可思議な火傷、については?」
明らかに火に巻かれているのに、周辺にその痕跡がなかったという、大怪我だ。
眉根を跳ね、驚くように視線を一度持ち上げると、
「大見倉・小潮から聞いたんだね?」
肯定に、小さく首を縦に。
どう話したものか、と枕につけて、巌洞さんは顎に手を置くと、
「前回の被害者にも、自分は君と同じ処置をとった。つまり、出入りの際に中の状況を報告してもらい変化を観察する、というものだ」
けれど、対象と接触し、協力を取り付けた矢先に、
「あの、わけのわからない事件だ」
※
当日、中へ入る彼女を見送り、出てくるのを待っていたところ、雑木林から悲鳴が響きわたり、
「慌てて駆けつけると、火傷を負った彼女がうずくまっていた。服には焼けた痕があり、あちこち煤で汚れ、なにより右半身の火傷が酷い状態で」
よほどひどい状況だったことが、巌洞さんの視線の揺れで察せられる。先生はまた聞きだったのだろうが、この人は惨状を目の当たりにしたためにか口ぶりは迫真で、
「周囲……木々や館には、火の手の痕跡どころか煙のかけらもなかったよ。警察発表では薬品被害ということになったが、まあ『機関』の方で用意した無難な『作り話』だ」
抑揚のない声に、かすかな怒りが見える。いったいどこに向くものなのだろうと思えば、きっと、自分自身だろう。失敗したと手違いをしてしまったと、そう考えているのか。
「そのあと、彼女は市内の病院に入院措置となって、自分は彼女へ事情を聞くために何度も足を運んだ。大見倉・小潮とはその時に出会ってね、出会いがしらに、きついのを一発お見舞いされたよ」
その時の再現をするように拳を、頬に当てるから、
……初手で、顔にグーとか。
担任への尊敬と畏怖が、一回り膨らんだ。
ふ、と笑うかわりに息をついた巌洞さんは、話を続ける。
「話を聞いているうちに、彼女の記憶が酷く欠落していることがわかってきた。欠落、は正しくないな……進行するかたちで、虫食いになっていっていた」
それは、先生の話にもあった。二日も会わないと、顔すら忘れてしまうようになってしまったと。
「事態が深刻であることから『機関』に報告し、館の監視と調査を継続させた。加えて、被害者については、治療と検体を兼ねてこちらの医療機関へ移送した。公にはできないから、極秘裏にね。まあ、これが大見倉・小潮に自分が嫌われる一番の理由だろうな」
今ではほぼ全ての負傷が癒えて、記憶障害も問題ないほどまで回復しているのだそうだ。だから先生に伝えた『今は幸せに暮らしている』というのは、あながちでたらめでもなかった。
ただ不思議でな、と目に疑いを漂わせながら、
「館で会っていた『彼』について、確かに名前は思い出すことはなかった。逆に言うと」
己の言葉に間違いがないか確かめるように、麦茶を一口呑み込んで一拍置いて、
「会っていたという事実そのものは、決して忘れることはなかったんだよ」
確かに、友人の顔すら忘れてしまう症状とは矛盾がある。
しかし、
「忘れられないほど、良い思い出だったとしたら素晴らしいことだと思うがね」
そういうものなのだろう、と巌洞さんの中では決着のついている疑いのようだ。
確かに、サンプルが増えなければ検証のしようもないため、考慮するべき事柄ではないのかもしれない。
自分も、最後には火傷して記憶が吹っ飛ぶかもしれないけれど、忘れたくなんかない。
富士崎さんとの、好きな人との、眩しいほどの思い出を。
だから、いま築いている思い出の実相がいかなるものか知らなければならないから、
「富士崎・旭を、御存じですよね」
最も大切な、この会談の最大の目的に踏み込んでいった。
驚きの沈黙が返って、それから探るように、湯呑を手に取りながら口が開かれる。
「……もちろんだ。今の話の中心人物だからね。大見倉・小潮から聞いたのかい」
つまり七年前の出来事の被害者の名前であり、
「……いま、僕があの館の中で会っている人の名前なんです」
好きな人の名前でもあるのだ。
けれど、踏み込みは失敗に終わったのを悟った。
巌洞さんは、その無愛想を崩すほどに、湯呑を取り落とすほどに、動揺をしめす。
つまるところ、彼もまた、事態に対する解答を持ち合わせていないという、これ以上ない証左であったのだ。
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