2:隣に居てくれる

 今日は、自分が先に館を先に出ることになった。

 理由はいつもの通り。夕飯の支度のためだ。

 父が外で済ましてこない限り、準備は自分の役割だ。幸いなことに、週に一度あるかないか程度の頻度なので、富士崎さんに会う時間を削られるのも最小限で済んでいる。

 冷蔵庫の中身とそこから至る献立とに思いを巡らせていくが、その実、脳みその三割くらいは、問うべき事を己の弱さから今日も踏み込めなかったことへの、自己嫌悪に占められている。ちなみに、残りの七割は薄く湿っていた水着のあれやこれやだ。

 つまるところ、実はうわの空であり、

「少年、お預け我慢できなくて食べちゃった犬みたいな顔になっているよ?」

 突然の声は、心臓を引き裂きかねないほどに驚かされてしまった。

 まだ明るい夕の空へ煙を吐き出したスーツの女性が、こちらへにやにやと笑いかけてきていた。

 いつもに増して、まあ鼻につく笑顔だ。

 気に入らなくて、その分意識が取られて、富士崎さんの水着映像を上書きさてしまうようだ。

 きつい煙草の臭いも、鼻孔に残るクチナシの香りを台無しにしてしまう。

 それでも、義務付けられた『館内の報告』があるため、向き合わざるを得なくて。

「日々の幸せと、そこにかまけて義務を怠り続ける罪悪感とが混ぜこぜじゃないか」

 なんだが見透かしたような言い草が、やっぱり不愉快で。

 我慢を強いられながら、義務を果たすことにする。

「今日も、特別なにもありませんでした」

「そうかい。君の両親の名前は?」

「吾郎と……達子です」

「ん。記憶も問題ないかな」

 定期検診も終わり、それじゃあ、とうつむき加減で雑木林沿いの帰路へ。

 けれど、足音が付いてくる。

「……どうしたんです、豊吾さん」

 小柄な子供と大人では、どうしてもコンパスに差がでる。すぐに並ばれて、

「なに、もう少しお話ししたくてさ」

「……僕は、別に」

「なんだよ、寂しいこと言うなよぉ」

 人差し指でわき腹を突かれて、反射で逃げるように横に反ってしまった。

 見れば、やはりにやにや。

 むっとして足を早めると、

「ゴメンゴメン! ゴメンってば!」

 やはりあっさりと、横に並ばれてしまう。吐息一つで諦めを示すと足の速度を緩めて、

「まあ、なんとなくはわかるさ」

「え?」

「そんな味わいある顔をしている理由だよ」

 言うほど愉快な表情をしていただろうか。

 けれど、心当たりがあると言われてしまうと、本当か嘘かを含めて好奇心が揺らされる。人に自身の胸の内を覗かれるのは面白くないのだから、正誤が気になるのだ。

 視線で表情をうかがうと、腕を組んで、雑木林の枝々を見上げている。

「中に居る『彼女』の正体だろ?」

 的は射ている。けれども、まあ、これまでの彼らが実施してきたという調査内容を考慮したならば、至ることのできる程度の推理。

 それぐらいならまあ、と視線を切ろうとしたところで、

「それに加えて、彼女の好意は本物なのか。

 もしかして、何かしら意図のある嘘なのではないか。

 嘘だとしたら、自分の好意はどうすればいいのか。

 そもそも、この好意は誰か何かに意図された偽りの感情なのではないか」

 心中に揺れていた核心を、貫かれた。

 足を止め、向き直れば、

「おうおう、見事な二度見だ。金を取れるレベルだよ」

 豊吾さんに笑われてしまって、慌てて視線を落とし直した。

 それでも、彼女の言葉が気になって、横目に盗み見てみれば、

「好きとか嫌いとかさ、難しい話だし、感情がどこからくるかなんて医療か……それこそSFの範疇だ。簡単にわかるとは言い難いな」

 無責任な結論を投げつけて、木々を見上げることを再開していく。

 その言葉には、なるほどという納得がもたらされた。

 感情について、考えたことなどなかった。自分の中で生まれ、自分の中で処理されていくものだ、ごく自然に捉えていたのだ。

 けれど確かに、心が不安定な時に発生する感情は、正常な時に比べて振れ幅が大きい気がするし、経験や持ちうる知識によっても変わってくるだろう。

 例えば、コンビニでレジに店員がしばらく現れなければ腹が立つ。けれど、コンビニで働くことで店員の労力や仕事の隙間について理解できれば、イライラの振れを小さくなるだろう。

 理不尽に対して怒りを覚えても、知識経験からそれが『理不尽ではない』とわかっていれば怒りは発生しない、と豊吾さんの話からは辿り着くことができる。

 なんだかんだ、だらしがなくとも大人なんだな、と感心したところで、

「どうして、葉っぱってのは緑色なんだろうな」

 今度は意図の読めない問いかけが、放り込まれてきた。


      ※


 なぜもなにも、

「葉緑体が……」

「いや、進化がどうこうってことじゃなくてさ。いや、そういう話になるか?」

 否定して、持ち直して、言葉を探すように、煙を一吐き。

「生きるために、生き残るためにそういう形になったわけだろ」

 だけど、と続けて、

「それだけなのかな、って。中にはさ、真っ黒が良かった奴も居たんじゃないか。真っ黒でいることを、周りが緑になるから、諦めた奴も居るんじゃないかなってね」

 変な話をするなあ、と感想つけて、葉を擬人化して話をするならと、こちらの考えを述べる。

「周りと一緒だと、安心できるからじゃないですか? 黒いと変に目立つし、それが効率の悪い行動だとなおさらだし」

 返された豊吾さんが、顔は見上げたまま、見開いた視線をこちらに。どうも驚いているようで、

「なるほどなあ。好んで染まっているわけか」

 一理ある、と小さく頷く。

「じゃあ、染まりたくても染まれなかった葉っぱは、可哀想だな」

「そうかもしれませんね……それじゃあ、染まりたくなくて、望んで黒のままの葉っぱはどうなんですか? 楽しんでいるんでしょうか?」

「そりゃあ、少年」

 ふらふらと、捉えどころのない豊吾さんだが、その一言は意外なほどにひどく固い響きが感じられて、

「隣に誰もいないんだ。やっぱり可哀想、だろ?」

 足を止めてしまった。

 気付いた豊吾さんも数歩行った先で立ち止まり、くるりと振り返る。

 たった一人で可哀想。

 そんな言葉に、だったら、と接続して浮かぶのは、

「彼女は、可哀想なんですかね」

 富士崎さんの、まぶしい笑顔だから。

 に、と笑って見つめる豊吾さんに向かって、

「七年前のこと、教えてもらえますか」

 自分は、好きな人の隣に居られるように、踏み込んで、前へ出る姿勢を見せることにしたのだ。

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