4:王子様の要件

 館を後にしたのは、空の星が姿を消し、すそ野が白く染められ始めた頃だった。

 時刻は、四時になる少し手前。

 女の子が目を覚ますまではとじっとしていたのだが、いつの間にか自分も寝入ってしまって、こんな未明と言われる時間に。

 彼女はというと、自分が目覚めたときには姿がなくなっていた。きっと、一人で帰ってしまったのだろうが、お別れの挨拶もできなかった始末。

「まったく、情けない」

 夜中に一人でいるなんて、どう転んでも複雑な事情に、深く踏み入るつもりなんかなかった。

 けれども。

 だからこそ。

 この一晩だけは守ってあげよう、一緒に居てあげよう、なんて考えたりしていたが、結果は御覧のありさまで、思いよりも欲求に負けてしまう自分が嫌になってしまう。

 夜明けにはしゃぐ小鳥たちの囀りを疎みながら、雑木林を気怠い足取りで抜ければ、

「やあ。ずいぶんお楽しみだったじゃないか」

 煙を燻らせるにやけ顔が出迎えてくれる。

「豊吾さん。ずっと待っていたんですか?」

「そりゃあね、何かあれば一大事だからさ」

 あそこの自販機までコーヒーを買いに行ったのは内緒だよ、といたずらめいた笑みを見せながら、言葉に出した缶コーヒーを差し出してくる。

 受け取れば、ひどく温くて結露の水滴もなくなっているから、それなりに長い時間を大気に洗われていたのがうかがえた。

 申し訳ない、という思いもあったが、それよりも確かめなければならないことがあって、

「女の子……十歳にはなってないくらいの子なんですけど、見ていませんか?」

 問いに、煙草を銜えた豊吾さんの顔から緩みが消えて、代わりに不審が浮かんだ。

「それは、君が言う『彼女』とは違うのかい?」

 意外な問いだったが、考えてみれば当たり前でもある。

 自分は、このスーツ姿の人たちに、富士崎・旭のことを何も話していないのだから。

 だから、豊吾さんが持ち得る情報は『彼女』という呼称から女性である、ということだけ。

 どうして聞かないのだろう、などというわかりきった疑問はない。彼らが求めるのは現象の解明であり、自分が見ている『彼女』のパーソナルに興味などないのだ。

 だから簡単に、

「違います。本当に子どもで」

「見ていないなあ。中で会ったのかい?」

「はい。だけど、そのまま二人で寝ちゃって」

 起きたら姿が消えていて、きっと先に出てきているはずだ、という推論を添える。

 煙草の先端が赤くなり、煙が濃くなって、

「そうか。まあ、敷地外に出るルートはここだけじゃない。別から帰ったんだろうね」

 そうでなければ、と続けて、

「その子供も『彼女』と同じ、なのかもしれない」

 考えてみなよ、と据えた隻眼で昇る煙を見つめながら、

「君の言う例の『彼女』だって、私らは姿を見ることが出来ていない」

 内緒だけどね、

「敷地内の藪に一日潜んで、玄関を見張ったことがあるんだ。その日は君が先に出たけれど、その後0時を回るまで、出入りする人間は確認できなかった」

 もちろん、

「廃墟だから、別から出たのかもしれない。まだ中に居た可能性もある。安全面から、私らは内部侵入の許可がないから、確かめようもなくてね」

 けれど、

「そんな人間は存在しない、とした方が理には適っている、と思わないかい?」

 気がつけば、豊吾さんの口元はいつも通りに戻っていた。

 軽薄な、自分をひどく苛立たせる、薄ら笑いに。


      ※


 逃げるように自転車を発進させると、

「帰るまでは面倒見るさ」

 と、いらない気遣いを見せる豊吾さんが、後ろに付いて回った。

 早朝の堤防に乗り上げて、並走する。

 朝日が顔を覗かせるより早い時間だというのに、町はすでに目を覚ましているようで、遠くから車の走る音がいくつも響いてきていた。

 口元から煙の尾を引かせながら走る法令違反者が、

「そういえば、どうやって女の子を落ち着かせたんだい?」

「え?」

「え、って。夜中に、廃墟にいる女の子に、見知らぬ年かさの男の前で眠ってしまうほど安心を与えた、その手管に興味があってさ」

 なんだか悪意ある言葉をチョイスしてくるから苛立ちはつのるのだが、無視してしまうには距離が近すぎるから、正直に答えてしまう。

「ポケットに飴を持っていて、それをあげたら落ち着いたみたいで」

 するとどうだろう。豊吾さんはなぜだか口が半開きになって、

「っあっつ! あっつ!」

 当然、煙草がこぼれた。葉を燃やす火が太ももに直撃したようで、悶絶しながら停車、吸い殻を拾うと、慌てて追いついてくる。

 確かに、自分でも偶然に過ぎるだろう、とは思うところだが、そこまで呆れなくてもいいだろうに。

 再び横に並んだ彼女は、にやけ顔を取り戻していて、

「けど、挨拶も無しに先に帰られた、んだろう?」

「……なんです」

「いや。王子様に成り損ねたねぇ、と思ってさ」

 は? と、ずいぶん突拍子もない言い草に、我ながら間抜けな声を出してしまっただろう。

「どう考えたって、その女の子は困りごとを抱えていただろうに。だけど、問題の解決に、君を頼ることは選ばなかった」

「それは」

「そりゃ、その子の考えていることなんか分かりっこないけどね、けどまあ、君が王子様……ピンチに現れ何もかもを一挙に解決してくれる、おとぎ話のヒーローに成り損ねたのは間違いないだろ?」

 いやまあ『成った・成らない』の二元論なら、成っていないではあるけれど。

 乱暴すぎやしないか、と眉を立ててしまうから、

「豊吾さん、王子様を信じているんです?」

 少し、バカにするように問いを投げてやることにした。

 すると、

「信じているよ。助けられたこともある……なんて顔するんだよ」

 意外な言葉を返しながら笑う横顔に、驚いて言葉を失ってしまった。

 先ほどの豊吾さんと同じように、口を半開きにしてしまった自分が、

「ちなみに、あげた飴玉は何味だったんだい?」

 しどろもどろにレモン味と伝えると、

「子供には、ちょっと刺激が強かっただろうなあ」

 などと、この人には似合わない穏やかな微笑みが、夏の朝の陽を浴びて輝いていた。

 今日もまた暑くなるのだろうと、不思議と予感させるかのように。

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