3:ささやかな刺激

 暗い住宅街を、いくらペダルを漕いで加速しようと、立ち漕ぎに移行して限界を越えようとしても、豊吾さんは軽々と並んできてしまう。

 このままではきっと、延々とついて歩くつもりなのだろう。

 自分は、この人がとにかく苦手だ。

 キリの良いところで帰るものだとばかり思っていたのだが、こちらの足が止まるまで同行するつもりとなると、鬱々とした気持ちからも対策を考えなければならなかった。

 そこで自分が考えたのが、館であった。

 富士崎さんと会える隠れ家は、豊吾さんたち機関から来たという二人は立ち入ることをおのずから律している状況だ。一重に、記憶への影響があるため、安全を採っての対応だという。

 そんな安全策が、今のように追いかけっこで追い詰められている状況では、助けになってくれる。

 雑木林の前に自転車を止めると、

「あらまあ、ごゆっくり」

 にやにやと微笑んでは煙草を灯し、キャスターの立てた自転車のサドルに腰を預けて、待機の様相を見せるのだった。

 葉々から木漏れる微かな月明かりを頼りに、入り口をくぐる。

 しん、と物音一つしない暗闇に、けれど恐怖はない。

 夜の館は初めてではないし、なによりこの場所では心が落ち着くから。自宅の夜に恐怖しないのと同じだ。

 床を踏んで、いつものリビングを覗けば、

「まあ、いるわけないよな」

 無人の『いつもの場所』に、言葉ほど諦めていたわけでもなかったのか、自然と肩が落ちてしまう。

 軽い失意を常識で慰めながら、いつもの場所へ腰を下ろした。

 自分は、富士崎さんのことをそれほど……いや、まったく知らないと言える。

 最初に会ったのは、やはりこんな夜の時間であったし、その時の彼女は制服姿であった。家に問題のある自分でさえ、その時はジーンズにTシャツという私服姿だったから、彼女も何かしら問題を抱えていることは簡単に察せられた。

 だから、互いに互いのことを聞くのは、暗黙のうちに伏せられてしまっていた。自分自身、父のことを口にすることは関係を崩すことになりそうで、だから向こうが口を開かない限り問うことはしないと決めてある。

 けれど、彼女の私服姿なんか見たことがないのも事実だし、身に着ける制服だって市内の高校の物ではない。

 きっと県外の私立校にでも通っているのだろう、と決着をつけているのだが、なにもかも自分の予想の範囲の中で、事実は不明瞭なままだ。

 悲しいとも寂しいとも思わない。

 富士崎さんと自分は、ただここで会い、他愛なくじゃれついて、くだらないおしゃべりを楽しむ、それだけで十分だったから。

 相手方も同じ気持ちかはわかりようもないが、そうだとしたら嬉しい限りである。

 とにかく、あの人と自分とは、この場所限りで、お互いのことなど何も知らなくとも、何一つとして不都合はない。

「クッキーのお礼、何か考えるか」

 会えなくと、次に会う時を思える。

 それだけで、辛いことばかりの毎日を、息をすることができているのだ。

 万が一を考えてポケットに飴玉を仕込んではあるが、クッキーの代わりにはなるまい。

 冷えるフローリングをジーンズ越しに楽しみながら、闇に意識を沈めていく。

 何を考えるでもなく、何を思うでもなく、眠るわけでなく、揺蕩うように明りのない夜を楽しんでいる。

 と、そんな暗闇の中、

「うん?」

 揺れる影が現れた。

 不思議というかやはりというか、突然の訪問者に恐怖心など無く、

「富士崎さん?」

 心当たりの名を探るように投げかければ、

「え?」

 歩み寄る影が輪郭を確かにするほど距離を近づければ、それが待ち人でないことはすぐに知れた。

 それどころか、こんな夜中の廃墟にはひどく不釣り合いな、

「女の子?」

 悲し気に俯いたままの、幼い少女の姿であった。


      ※


 驚きはあるが、まあ恐怖などない。人智を越えた何か、という疑いも過ぎったが、それでも構わないと嘯くほどには、自分の心は摩耗していたようだ。

 なにより、身に着けた紺のワンピースが夜の闇の中でもわかるほどに汚れていること、素足のままであること、泣き出してしまいそうな顔であることが、元々乏しかった恐れる心を削ぎ落してしまっていた。

 隣へ、富士崎さんのお気に入りの場所へ手招きすると、小さく頷いて素直に腰を下ろしてくれる。

「名前は?」

 なるべく優しく問いかけるも、俯いたままで答えてはくれない。

 近所の子だと思うのだけど、風体からわかる通り、事情があるのだろう。

 自分は、問いただすことはしない。人には、幼かろうが老成しようが、口にしたくないこと誰にも知られたくないことを、なにかしら抱えているのだから。

 よく、わかる。自分事だから。

 だったら、自分が富士崎さんに救われているように、下を向いたままの少女へできることがあるはずだ。

 では具体的にどうするか、と思案すると、ポケットの中の万が一を思いだす。

 三つほど隠し持っていたレモン味の飴を、手の平で確かめる。そのうちの一つの包みを破り、少女へ、

「はい、どうぞ」

 中身を小さな手に乗せてあげる。

 彼女はそれでも顔を上げることなく、しばらく裸の飴玉を眺めた後で口へ運んだ。

 数秒、口の中で転がす軽い音が、二人だけの荒れたリビングに響いて、

「……すっぱいです」

 しまった、子供には向かなかったか。

 春の花が揺れるような可愛らしくも儚い声音で、子供らしい直球で辛辣な感想が届けられるから、どう言い逃れようかと言葉を探せば、

「……ありがとうございます」

 囁くような礼が届けられた。

 そっか良かった、と落とした肩に、何やら軽い重みが預けられ、

「どうしたの?」

 やはり返事はなく、鼻をくすぐるクチナシの香りを揺らしながら、小さな頭をこちらに。

 どうやら寝入ってしまったようだ。

 まだ、口に飴が残っていただろうに、それでも睡魔に呑まれたというなら、どれほどの疲労を覚えていたことか。クチナシの匂いが服や髪に移るほど、長い間、ここにいたのだろうから仕方がないのかもしれない。

 想像するしかなく、踏み込む権利もない自分にはわかりようもないが、それはひどく難しい内情を抱えているのだろう。

 それがとても悲しくて寂しくて、けれど親しく感じてしまって、

「これも持っていきな」

 力ない小さな手に飴の残りを握らせると、少女の一時ばかりの寝床であることを受け持つことに決めたんだ。

 彼女の体の冷たさを、少しでも分かち合いはできないだろうかと願いながら。

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