第一章:館で待つのはきっと彼女ばかりではないから
1:ここではない場所
一年生の教室は校舎の三階になるため、窓は田舎の町並みに半分を占められている。
学校を取り巻く住宅街があって、さらに広がる田畑に囲まれていた。背丈の伸びた青い稲穂が、穏やかに波打つのがよく見える。
窓の残り半分を占めるのは、夏の空だ。
ひどく色の濃い、季節独特の青色。その中へ浮舟のように白い雲が浮かんでは、風に流されていく。時折、タンカーのような入道雲が陽を遮ることもあり、ひしめく様子はなんだか、ニュースで見た混み合う航路のようだ。
高い海をいったいどこまで行くのだろうか、などとぼんやり眺めていると、
「聞いているか、霧島」
教室の最先鋒。
黒板前の教壇から、低く投げやるような女性の声がかけられる。
見れば、ホームルームを進行していた担任が眼鏡をかけなおして視線を送っているから、姿勢を正して向きなおって見せる。
先生は満足したのか、視線を切ると、中断していた連絡事項の通達に戻っていく。
「あー、どこまで……そうだな。もうすぐ夏休みだけど、期末試験もまもなくってことだ。気を抜かず、緩めず……」
監視の目が外れたことで、自分の視線は自然と再び窓の外へ。
つまらなくてどうしようもないこの一日の中で、唯一、腰を落ち着かせることのできる時間に思いを馳せ、心持ちはすでに白雲に乗って件の『館』を目指しているのだった。
※
きっと自分は、どうしようもなく、どこかへ行ってしまいたいのだろう。
だって、見渡す限りのどこにも、居場所なんかないのだから。だったら、遠い地獄だろうと誰もいない幽世だろうと、変わりなんてない。
理由は、様々に心当たりがある。
父親の暴力と、母親の不在だ。
普段はまっとうな会社員なのだが、相当に酒癖が悪く、手当たり次第に何かを壊し続けるようになる。息子の自分も例外ではなく、視界の中にいると気が済むまで殴る蹴るを止めないのだ。
幼い頃は優しい父親だったが、十歳の頃に母親が蒸発してから一変したと記憶している。
きっと、いわゆる幸せな家庭だったはずの我が一家は、どこかで歯車が欠け落ちてしまって少なくとも『自分の居場所』ではなくなってしまった。
生傷の絶えないことから各所行政や学校、親戚らの介入が増えていき、となれば広がる噂に神経が触った父親の症状は、ますます悪化していった。
こうなると、ご近所さんは当然、学生らにも噂が広がるのは時間の問題だった。
こんな具合で、ぽろりぽろりと足場が欠け落ちてしまって、気が付いた時には宙ぶらりんでふわふわと浮かんでいる。
いや、それも正しくはなくて、ただただ落ち続けているだろう。
着地点が見えたら、終わりの時なのかもしれない。
でも、自分はどこかへ行ってしまいたいのだ。
突然に目の前へ現れた『あの人の隣』という足場は、落ち続けるこの足の『着地点』かもしれなくとも、縋りつくに十分な眩しさだったから。
今日も、雑木林に足を運ぶ。
この世界で唯一の居場所と思える、クチナシの香るあの館に。
けれども、そんな自分の僅かな足元を掘り返してしまうことを目論む、
「やあ、霧島君。今日は付き合ってもらうよ」
巨躯の鉄面皮と、咥え煙草の眼帯女が、現れたのだった。
※
昨日、不審を拭えないままという印象の悪い初対面の挨拶を交わしたあと、家に帰らなければと言い繕ってその場を逃れたために、
「あの館を破壊する?」
こうして、国道沿いのファミレスに連れ込まれて、ひどく危うい言葉を、事もなげに告げられてしまっていた。店内は、夕飯前という時間もあって、スタッフと自分たちだけの閑散とした状況だ。
「可能性がある、という話だ。無害、有用であればうちの管理下において、そのままさ」
黒服のいかつい男性が言うことには、だから協力をしてほしいということ。
二人は超自然的な現象、物品を監視し対処する、いわゆる『世界の平和を維持する機関』に所属しており、今回の対象があの館なのだそうだ。あんまりな呼称だと思ったが、組織の正確な名称は『諸々の危険』の可能性があるため、秘匿されているのだとか。
好きな物を頼んでいい、と言われたが疑わしさが先だち、自分の注文はアイスコーヒーを一つだけ。
ケーキとポテトは逆じゃなかろうか、と思いはしたが、人の嗜好にわざわざ嘴を立てる趣味も、無意味にこの時間を引き延ばすつもりもなかったから、
「最初にあそこに立ち入ったのは、ひと月前です」
素直に、正直に答える。
家庭内不和が原因で、夜に家を抜け出したこと。
たどり着いた先で出会ったのが、年が二つ上の少女だったこと。
今まで十を超える数だけ、顔を合わせている事。
富士崎さんの名前は彼女に迷惑をかけるかもしれない、という懸念と、恋心を抱いていることは、まあ無用であろうという判断で、内緒にしたが。
巌洞さんは、こちらの話を頷きながらメモを取る一方で、
「お前はなにか気づいたことはあるか?」
「え? このファミレス、ポテトにマヨネーズ付かないんだな、ってくらいですかね」
豊吾さんの方は、へらへらと笑いながらコーラのお代わりを求めていた。
真面目な上司と、不真面目な部下。
どちらも通常の社会人とは思えない風体であるが、話してみると巌洞さんはまっとうな大人だと感じさせられた
逆に、豊吾さんへの印象はすこぶる悪い。茶の革眼帯も目立つし、振る舞いは軽薄だし、何より全身から煙草の臭いが立ち込めている。今もテーブルにボックスとライターを並べてあることから、神経を疑う程度には信用が右肩下がりだ。
そんな部下の態度をたしなめながら、比較的信用の高い方の大人が問いを続ける。
「そうだな。ここひと月ばかりで忘れ物が増えた、人の名前を思い出せない。そんなことはなかったかい?」
意外で、なおかつ、答えようのない質問だった。
正直なところ、子供のころから何かを、誰かを覚えるというのが苦手であった。単に自分の要領が悪いのだと思っていたし、家族に起因する日常的なストレスで、能力が人より低いのかも、と疑うことはあった。
だから、このひと月程で状態が悪くなったかと言われればNOであり、
「例えば、お父さんとお母さんの名前は?」
「吾郎と、達子です。覚えていますよ」
ふむ、と手帳にメモを続ける巌洞さんだったが、正直なところ母親の顔はもう思い出せない。蒸発したのは昔のことで、写真も父親が全て焼いてしまっているから。
そちらを聞かれたなら、覚えていないと言ったなら、果たしてどんな反応だったか。
こちらが口を結んだまま走るペン先を眺める様子が、不安の表れと取られたのか、
「班長、少年が綿菓子を渡されたアライグマみたいな顔をしてますよ。説明いりません?」
どんな顔だよ、と思ったが説明が欲しいことには変わりがないので、余計な口を挟まずにいると、
「そうだな」
と、上司の方が手帳を閉じて向き直った。真面目な話だ、と枕につけると、
「あの館は人を喰う、世界の秩序から外れた存在なんだ」
などと、眉一つ動かさずに、ふざけたことを告げられるのだった。
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