彼女が待つのはきっと僕だから

ごろん

彼女が待つのはきっと僕だから

OP

 そのうっそうとした雑木林は、昔から営まれる住宅街の真ん中で、静々と枝々を揺らし鳴らしていた。

 日本が空前の好景気に呑まれた時代を経て、売り渡されて均されるわけでもなく、区画整理で身を削ることもなかった。

 の、だという。

 いかんせん、遥か以前のことで実感などない。今年で十五歳の自分にとっては生まれた時から存在していた、そこにあることが当たり前の、少々刺激的な遊び場だ。

 学校を終えた足で、門のように突き出た栗の木の枝をくぐると、下草が踏み均されてできた細道を抜けていく。

 不思議なもので、生い茂る外観からは想像できないほど、林の中は明るい。また、雑然と生い茂る草花は、よく見るとその種類が多様なことに気が付かされる。時期のせいか、甘い匂いを誇らしげに振りまくクチナシの花たちが、よく目につく。

 夏の夕方の、暑く、だけどどこか寂しさの溢れる木漏れ日のなか、歩を進めていくと、『それ』は見えてくる。

 木々に守られ、葉々に隠された『それ』。

 赤い屋根も、クリーム色の外壁も、くすんで剥がれ落ちた、流れる時間に洗われてしまった、一軒の廃墟。

 小さな、二階建てでごく一般家庭向けの住宅の、成れの果て。

 朽ちて落ちた白塗装のアルミドアを跨いだら、主を待ちくたびれてしまった玄関をくぐって、

「こんにちは、富士崎さん」

 先客に挨拶を告げる。

 奥、リビングだったであろう部屋の片隅。壁に背を預けて床に腰をおろした制服姿の彼女が、いつもと同じ表紙の文庫本から顔を上げてにっこりと微笑んでみせた。

 まるでクチナシのような、初夏によく似合っている広がるような笑顔に、

「篤くん」

 この胸は、知らずに弾んでしまう。

 富士崎・旭ふじさき・あさひ

 自分、霧島・篤きりしま・あつしが恋心を寄せる人で、

「待っていたよ」

 自分のことを待ってくれる、この世界で唯一の人なのだ。


      ※


 富士崎さんと自分の出会いは、ほんのひと月前の満月の夜だった。

 酒乱の父親の暴力から逃げるように家を飛び出した後、夜を明かす場所を探してさまよって、この林の奥の廃墟に辿り着き、ここで彼女と出会ったのだ。

 暗がりの中に先客が居たことに驚かされたが、自棄になっていた自分は、恐れよりも無気力が勝ってしまって、第一声が『ここに泊めてもらっていいですか』だったほど。

 そんな申し出に制服姿の富士崎さんはただ笑って『隣にどうぞ』と、お気に入りの場所を分かち合ってくれたから、クチナシの香りに包まれるよう、寄り添って朝を迎えたのだった。

 その後、事あるごとに屋敷へ足を運ぶようになり、そのたびに顔を合わせ、明るい彼女の話に耳を傾けるのが楽しく嬉しいことに気が付くようになり『好きになっている』ことに思いたるのもすぐだった。

「それでね、その友達がひどいこと言うの。十五歳相手とか、それは誑かしだろって。ひどくない? 私たち、ただこうして会ってお話しているだけなのに」

「そうですね。だけど、富士崎さんのこと心配しているんじゃないですか?」

「きっとね。心配したがりだから、あの子」

 にっこりと笑顔を見せられると、いっそ誑かされてしまいたいところであるが、

「……俺、そろそろ帰りますね。夕飯の準備しないと」

「え? あ、もう六時か。ふふ……夕方にきっちり帰るなんて、カラスさんみたいね」

「うぅん……なんだか、バカにしていません?」

「あ! ごめんなさい! 悪気はないの!」

「わかっていますよ、大丈夫です」

 この、空間が壊れてしまわないか、という恐れが先にたつ。

 自分を肯定してくれる唯一の居場所。

 この温もりを、包んでくれるクチナシの香りを失ってしまうことになったなら、残された自分は耐えられるだろうか。

 だから、

「また来ます」

 いつもの通り、別れを告げて、

「うん。待っているからね」

 これ以上ない次の約束に、口元を綻ばせてしまうのだ。

 きっと、次に会う時も、その次だって、変わることはないだろうと疑うことなどなく。


      ※


 けれども世界は、不変である物の存在など認めたくないらしい。

 縁を朱のグラデーションに塗りあげる夜空の下、雑木林を抜けてアスファルトに靴底を付けたところで、

「っ!」

 唐突に待ち伏せをかけるよう、ヘッドライトが浴びせかけられた。

 咄嗟、手で視界を庇うと、運転席から厚みのある男性のシルエットが下りたって、

「霧島・篤、君だね?」

 きっちりと着込んだスーツ姿の巨漢が、歩み寄りながら、宥めるような口ぶりでこちらの名前を告げる。

 まずは、なぜ、と疑問がつく。なぜ、自分の名を?

 それから、なぜ、と。なぜ、ただの高校生を待ち伏せる?

 この土地の所有者であろかと疑ったが、であるなら、名前を知っているのはおかしい。

 だから嫌な予感が爆発して、腰を落とし、踵を返すと、

「はいはい、落ち着きな」

 逃走に移る姿勢を制するよう、道を塞いで両手を広げるもう一人の姿に気が付いた。

 やはりスーツ姿でしかしネクタイはつけておらず、職務中だと思うのだが、咥え煙草で口元の暖を取っている。革の眼帯が特徴的で、目につく。

 ありていに言って不良社会人という様相で、よくよくシルエットを見れば女性であることがわかって、そのだらしなさになおさら顔をしかめる。

「驚かせてすまない」

「いいUターンだった! まるでインパラみたいだ」

 こちらの顔色を勘違いしたようで、男性が生真面目な表情で刈り上げた頭を軽く下げる。

 対して、背後から迫る女性は、軽口をつきながら吐息に煙を乗せてくる。

「おい。どうして煙草に火がついているんだ」

「いや、班長。張り込みなんて暇で、口寂しくなりまして」

 一体全体、何が起きているのかわからない自分は十分に警戒をするのだが、

「時間はあるかい、霧島君。少し、話を聞かせてもらいたいんだ」

 ああ、と悟る。

 疑いたくなんかなかった『変わらないこと』が、音をたてて軋み始めていることに。

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