2:豊吾・紫暮

「目がこれで車を運転できないからさ。ホームセンターで買って来たんだ」

 それで慣らし運転のため、こんな時間に堤防沿いを走っていたとのこと。

 自分に出会ったのは、

「たまたまさ。行方不明だった飼い猫と隣町で鉢合わせるような、そんな偶然だよ」

 疑わしさ満点ではあるが、そういうことなのだそうだが、

「それじゃあ、どうして並走しているんです? 慣らし運転なら一人でも……」

「なんだよ、寂しいこと言うなよぉ。君も、どうせ一人なんだろ」

 一人が良い、からなのだが、そんな個人的嗜好を豊吾さんは理解してくれるはずもなく、速度を上げようが、一旦停車しようが、ぴたりとくっついてはニヤニヤ笑いかけてくる。

 頭を掻き、ため息を小さく吐いて、ペダル踏みを再開したら、

「そうだ。二人乗りしようか? 夢だったんだよ、男の子の背中に掴まるの。白馬の王子様と一緒に風を切るんだ」

「白馬の王子様なら逆じゃないですか? 絵本とかイメージだと、お姫様が前で抱かれている気が……」

「それだと、背丈的に前が見えなくなるだろ、少年」

 悔しいがその通りだし、第一こんな煙草臭いお姫様は勘弁してほしいので、

「いや、あの……僕、足そんな強くないから……」

「どんな言い訳だい」

 咄嗟の言い逃れに、声を上げて笑われてしまった。

 それからしばらく、暗く長い河川沿いを並んで走り続けた。

 楽しんでいた湿気に強まる草花の濃い匂いが、ニコチンの鋭い煙に上塗りされてしまう。

 さすがに火は消していたが、新しい煙草をくわえ直したまま自転車を漕ぐにやけた横顔は、なんだか苛立たしい滑稽さだ。

 大人と、どちらかというと平均より体格の劣る子供のツーリングだ。

 どうしても速度差が出てしまうから、豊吾さんのペダルを踏む音が止む時間が増えてしまう。

 一人で走りたい自分としては、勝手に先行すればいいのに、なんて思うけれども、並んで走るのが目的なのだろう。こちらの早くもないペースに合わせてくれているのだ。では、どうして、と考えてしまうのだが、明確にその目的を知ることはできない。

 きっと、普段の軽薄な行動から、考えのない気まぐれなのだろう。

「霧島くんはさ」

 幾つ目かの街灯を通り過ぎたところで、豊吾さんが声をあげた。

 前方から顔は逸らさず、目だけで盗むように見れば、

「辛いことってあるかい?」

 思いもしなかった問いが、煙草を上下させる口から放たれる。

 え、と戸惑い、ではと思い返せば、

「いっぱいありますよ」

 父のこと。母のこと。学校のこと。

 頼れる人が居ないこと。

 けれども、最近は富士崎さんが居て、すごく救われていることも確かめられる。

「今は、豊吾さんに夜のサイクリングを邪魔されていることです」

 冗談を言えるくらいに、心に遊びの部分ができている。

 はは、とやはり軽く笑われるから、

「豊吾さんはどうなんです?」

 軽い気持ちで問い返す。

 と、おもむろに気配から軽さが消えて、と言って重くなったわけでなく、あれ、と思い暗がりの中に表情を窺えば、

「あるよ。ずっと、辛いことばっかりだったさ」

 眼帯と揺れる髪に隠れているせいなのか、もとより色合いを無くなったのか、はっきりと読み取ることなんかできない。

 確かに、目に見える大きな怪我をしているのだ。平穏な半生だとは、控えめにも言えないのだろう。

 また話の振り方を間違えたか、と後悔しかかったところで、ぐ、と、左目が見えるまでに首を回され、

「今まさに、男の子から邪険に扱われるしさぁ」

 にや、と、からかっていますよアピールを口端に。

 こちらが先に冗談を口にしたことも都合よく忘れたことにして、むっとなってペダルを漕ぐ足に力を込めた。

 堤防沿いから住宅街へ舵を切りながら加速する自転車に、豊吾さんはやはり笑いながら、

「ま、辛いことがいっぱいあっても、大きい目標があるから笑っていられるんだよ」

 などと、後ろをついてきながら、彼女のスタンスを教えてくれるのだった。

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