第二章:夜に待つのはきっとささやかな刺激だから

1:夜が訪れる

 館で富士崎さんと会うようになって、ひと月と一週間が経過していた。

 つまり、あのうさん臭い二人組に、館での出来事を『取り立てて何も無し』と報告するようになって一週間だ。

 暮れの迫る夏の空の下、雑木林から出てすぐの路上で車のボンネットに腰かける巌洞さんに、今日も同じ言葉で状況を伝えている。豊吾さんの姿はなく、軽薄な合いの手で話の腰を折られないのがありがたい。

「大きな変化はない、か。ありがとう、次も、よろしく頼むよ」

 礼と、駄賃のつもりか冷たい缶コーヒーを手渡される。

 自分が館へ足を運べば、必ず彼ら二人のうちどちらかが待ち構えており、館を出るまでその場を離れることはなかった。

 無論、自分も毎日訪れるわけではないから、おそらく二人はこちらと関係なく、館の動向を探っているのだと思う。

 そうして長い時間見張っているはずなのだが、

「今日も、彼女は先に館を出ました。巌洞さんは姿を……」

「残念だが見ていない。出るも、入るもな」

 自分以外、誰も富士崎さんの姿を見ていない。

「なんだか、狐につままれたような気分になるよ。実際は、割れた窓も勝手口もある。雑木林も、逆に抜ければ隣の通りにつながっているからな。そちらから帰ったのだろう」

 館にいるあの人の実態は、まるで分らないままだ。

 初夏の風が、まあ少々冷たくなり始めていて、日が暮れかけていることを思い出せば、

「送ろうか?」

「いえ、大丈夫です」

 別れを告げて、それぞれの帰り道へつくことに。

 カバンを背負い直すと、外灯もまばらな生活道へ。

 背後で車がタイヤをアスファルトに噛みつかせる音を聞けば、

「そうだ、霧島君! 聞き忘れたことがあった!」

 良く通る低い声に呼び止められて、振り返る。

「記憶は、まだ大丈夫かい」

 それは、出会ってから幾度か問われた、いわば定期健診だ。

 最初の設問だった両親の名を脳裏で繰り返し、間違いないことを確かめると、

「問題ありません。いたって大丈夫です」

 締めた頬のまま、ありがとうと、了解を含む返礼を受け取る。

 窓は閉じ、車が再び発車していく。

 赤く飛び散るテールランプが、やけに刺々しく夜に沈みかけた街を照らすのを見送る。

 そんな赤色が今日の終わりの合図なのか、と肩を落としながら。


      ※


 曖昧な記憶なんか、誰にだってあるだろう。

 人間は何もかもを、完全に記憶しているはずがないのだから。

 例えば、昨日に会ったあの人が着ていた服の色は?

 例えば、小学校の時に担任だった先生の誕生日は?

 例えば、三軒隣の家で昔飼っていた柴犬の名前は?

 思い出に記録してある過去のことなど、あちこちが虫に食われていて然りじゃないか。

 そんな自分にも、どうしても思い出せないことがいくつもある。

 一つが、母親が蒸発した直後に、一人で夜道を歩いていた記憶だ。

 どこをどう歩いたのか、どうやって家に帰ったのか、ひどく曖昧なのだ。

 ただ、理由は分かっている。

 酒に溺れて暴れた父親の暴力から、逃げ出したのだ。

 ひどく怯え、助けを求めて。

 忘れもしないし、忘れることもないだろう。

 なにせ、今夜も同じ理由で家を飛び出して、夏の夜風を切りながら自転車を転がしているのだから。


      ※


 自転車は中学生の時に、お年玉やらを貯めて買った安物のママチャリだ。

 自宅に置いておくと父親に壊されかねないため、理解あるご近所さんにお願いして保管してもらっていた。鍵は自前で管理しているから、夜中に、静かに持ち出す分には了解を得ている。

 買い与えられる、など期待できない自分にとって、どうしても欲しかったものだ。

 安物とはいえただの便利な道具なんかではなく、いざという時に逃げるための移動手段になるから。

 まあ、今のところ『その時』は訪れておらず、登下校に使えば父親に露見する可能性も考えると、こうして一人でサイクリングを楽しむことにしか使っていない。

 人一人も出歩いていない、窓の明かりも乏しい時間に、住宅街を抜けて河川沿いの堤防道路へ飛び出していく。

 時間は十時を回ったところ。少し粘るような、湿気を帯びた宵の空気。裂くように撫でるように頬をくすぐらせると、頭上で眠たげな三日月に見下ろされながら、ペダルに体重を預けた。

 加速し、前へ進む速度を浴びることは、すごく好きだった。

 迫っては過ぎていく風景が、額に当たっては流れていく風が、まるで頭の中の嫌なことを洗っては捨て去ってくれるようで。

 速度が落ちれば、捨てた嫌なことに追いつかれてしまうようで、必死にペダルを回し続ける。

 まあつまり、いつまでも止まらずにいられるわけでなく、いずれは捨てて忘れた嫌なことは戻ってしまうということだ。

 救いは、そのタイミングを自分で決められることだ。

 けれども、今日は不本意に足を止められてしまう。

 堤防沿いのまばらな街灯の、その一つの明かりの笠の下。

 そこに佇む、口元に赤々と暖を灯す人影が、

「やあ、少年。奇遇だな」

 自転車に跨ったスーツ姿で、影深く笑って見せていた。

 思わず眉をしかめて、さてこの不快感は、苦手な豊吾さんに出会ってしまったことか、はたまた自転車を止められてしまったことへか、ひどく曖昧であって、

「なんです、こんな時間にこんな場所で」

「そりゃあこっちのセリフだよ。見かけによらず不良だったのかい?」

 なおさら、不快感に眉根のしわを寄せてしまうのだった。

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