3:信の置きどころ

 富士崎さんは、今日も変わらずに、お気に入りの壁に背を預けていた。文庫本に目を落として、こちらに気が付くと笑顔を見せてくれる。

 制服姿だから、地べたに腰かけると際どいところまで見えてしまっているのだが、本人はまったく気にした様子を見せない。こちらもなるべく視線を逸らしながら、いつものように隣へ腰を下ろす。

 何も変わらず、だ。

 クチナシの香りも、夏に火照る彼女の体温も。

 あの二人、主に巌洞さんは『接触してくる人物には気を付けろ』と忠告してきたが、いったい何に気を付ければいいというのか。

 こんなにも魅力的で、熱を持ち、微笑みかけてくる彼女が、いったい何者だと言うのか。

 なにか疑うに足るものがあれば話は違ったが、現状ではあの二人の方が怪しい。目の前ではおとなしく『わかりました』と告げてはいるが、信頼の天秤はどう考えても初対面の不審者たちに傾きようなどないだろう。

「あのね、今日はお土産があるの」

 だから、安心を確かめるよう、まじまじと見つめてしまって、

「どうしたの? 何かあった?」

 彼女の目を丸くさせてしまう。

 しまった、という小さい後悔が何に拠るものか、はっきりとはしない。正体が怪しいと告げられた存在に隠し事を察されることへのものか、好きな人へ不要な心配を与えてしまったことへか。

 きっと、二つを合わせて半分に割ったものだろうと、感じる。

 あなたが疑われている、という事実を自分が隠していることへの罪悪感だ。

 口が裂けても伝えたくなんかないことだから、きっかけすら見咎められたくないから。

 咄嗟に嘘を繕って、

「昨日、ここを出るときに変な車を見かけたんだ」

「え、そうなの?」

 まるっきりの作り話は気が引けるから、事実の中であたりさわりのないところをくりぬいて見せた。

「私が出た時は誰もいなかったけど……」

「じゃあ、偶然だったのかも」

「なんだか、気持ち悪いね」

 可愛らしく首を傾げる仕草も、彼らの話を聞いた後では意味合いがふらつく。

 本当に彼女が館を出た時に、彼らは撤収していたのか。

 館が生み出した疑似餌なら、そもそも館から出ていないのか。

 そもそも、彼らの話をどこまで信用するのか。

 天秤の針は藤崎さんを差すことに間違いないが、うさん臭い疑いが向かい合う皿に乗っていることも事実だから。

 信用を置く先は決まっていても、僅かに針が揺れる。

 それがたまらなく不快で、

「その、お土産って?」

 振り払うように、目を瞑ることにした。

 そうだ、と満面に驚きを作って、それから弾けるように笑ってみせて、

「隣、いいよね?」

 もう並んで座っているじゃないか、という疑問を形にするより早く、

「ね?」

 衣擦れの音に続いて、体の横側に熱が密着してきた。

 つまり、富士崎さんのブラウス越しの細腕が、タイツも履いていない太ももが。

 驚き、けれどそれより思春期に血を昇らせながら、慌てて確かめると、

「これ! どう?」

 腰を捻ってこちらを見上げるような恰好で、胸元に手を広げて見せていた。

 正直、色々とそれどころではないのだけれども、鼻をくすぐる甘い香りに正気に引き戻されてしまった。

 濃く漂うクチナシの香りに負けないくらいに、芳ばしい匂いが立ち込めた。

 両手の上には、花を描いたラッピングフィルムが広げられ、そこに乗せられたのは、

「クッキー?」

「そう。調理実習でね、お土産にくすねてきちゃった!」

 悪戯を自慢するように『友達には愛人への手土産か、なんてからかわれたけど』と肩をすくめて、一片を指でつまみ上げる。

 いかんせん、血が上ったままだから漫然と眺めることしかできなくて、

「はい、あーん」

 そのまま口元に寄せられるという暴力的な蛮行に、

「あ、あーん……」

 屈しないわけにはいかなかった。

 舌にバターの風味が届くと、閉じた口端が早すぎたのか、彼女の冷たい指先が触れてしまい、

「ご、ごめん!」

「いいのよいいよ。あ、じゃあ、お詫びに」

 に、と微笑んで、目を閉じて小さな口を開いて見せる。

 綺麗な白い歯の奥に暗く隠れるように口内が見えて、意図が呑み込めないまま、またも思春期が血圧を上げてきてしまって。

「ほら、あーん」

 ああ、そういうことか。

 クッキーを一つ摘まんで、口元まで運ぶ。

 当然初の行為で、女性の口の中を覗くというのも初の体験だからドギマギと緊張して、恐る恐る慎重に、だ。

 唇を過ぎて、歯を過ぎて、けれど噛み掴む気配が無くて、おや? と思いながらも突き入れていくと、

「あーむっ」

「うあっ!」

 突然に完全に、指ごとくわえこまれてしまった。

 ぬるりとした感触に驚いて咄嗟に引き抜けば、

「これでおあいこ、だね」

 屈託なく笑うから、体の揺れがこちらまで伝わってきて、声を上げて笑ってしまった。

 この暖かさ、柔らかさが偽物だなんて髪の毛ほども思えない。

 今まで生きてきて、一つも良い思い出なんか作れなかった自分だ。

 不安になるほど楽しくて、その不安が消し飛ぶほど嬉しい毎日が広がっている。

 何も変わらないまま、このまま続けばいいのに。

 心の底から、願うところである。

 けれども、と過ぎるのは、傾ききったはずの天秤の逆に下がる皿の上。

 信の置けない『疑いの言葉』という、些細でしかない疵であるのだ。


      ※


 かすかな、爪の逆向けのようなわずかな疵をひっかくように、

「よう、少年。逢引きはおしまいかい?」

 雑木林を抜けた先、夜の先駆けである藍の空の下で、豊吾さんが煙をくゆらせていた。

 富士崎さんが『夕飯の当番だから』と館を出たのが六時頃。自分一人で、どうしてこんな周りが夜の黒に塗られる時間まで粘っていたかというと、なにより帰りたくない一心からであり、粘ることを諦めたのは夜の濃度が上がって視界が通らなくなったからだ。

 豊吾さんは、そんな気まぐれな行動をする自分を、ここで待っていたのだろうか。いったいなぜ、と問うより早く、

「日が暮れた夜道を、子供一人で返すわけにはいかないだろ?」

 口端を大きく歪め、それらしい正論を放り投げてきた。

「大丈夫ですよ。言うほど子供じゃないんですから」

「そう言わないでさあ。上司に置いてかれたお姉さんに、優しくしてくれよう」

 しだれかかるよう肩に腕を回して、スーツの煤けた臭いをアピールするから、眉をしかめて距離を取る。

 あらら、と軽く笑って、歩き出したこちらの後ろを付いてくる。

 言った通り、送ってくれるのだろう。

 余計なお世話だとは思うけれども、田舎の住宅地、人気もなければ外灯も少ない。並ぶ住宅からの零れる暖かい明りだけが頼りだ。

「はあ、晩御飯時だねえ、さあて、今晩な何にしようかな。

 君は? 晩御飯は何にするんだい?

 ああ、この匂いはカレーかな? 空腹時のこのスパイシーな匂いとか、有罪だと思わない?」

 益のないへらへらとした世間話を背中で受け止めると、

「匂いが気になるなら、車を使えばいいじゃないですか」

 望まない付きまといに、少しばかり強く言葉を返す。

 おそらく巌洞さんが車を持って行ったせいで、彼女は徒歩なのだろうから少々の嫌味のつもりで棘を立てたのだが、

「ああ。四輪の免許、取れないんだよね。目がこれだから」

 え、と振り返ると、微かな生活灯の下で、ニヤニヤ顔のまま右目の眼帯を指さしていた。

 なるほど、と、しまった、がまぜこぜになって、口を開けたまま足を止めてしまうと、

「気にするな気にするな。運転ができないわけじゃないからさ」

「いや……はい……」

 不意打ちにやられて、慰めにも上手く返せなくて。

 立ち止まった分、遅れていた豊吾さんが追いついて横に並び、背中を軽くたたく。

 押されるように帰路に戻って、それから気まずさを誤魔化すように、

「先に出た女の子は見ましたか?」

「いや、見てないな。すれ違いになったかな? なんだい、彼女に置いてかれたのかい?」

 テーブルへ上げた話題が、茶化すように笑われてしまい、ついでにいつの間にかくわえられていた煙草に火が灯される。

 暗がりのなかで弱々しく光る切っ先を、怯むように睨んで、気を遣ったことを後悔しながら、

「煙草、歩きながらなんて、良くないんじゃないですか?」

「大丈夫、大丈夫。携帯灰皿は持っているから」

 そういう事じゃないだろう、と肩を落として、再び確かめる。

 やはり自分は、この人のことがすごく苦手だ、と。

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