2:変わっていくこと
火が。
燃え上がる炎が、昔から苦手だった。
なぜ苦手なのか、原因ははっきりしていない。けれど、時折悪夢を見るほどには傷があるのは間違いない。
その悪夢も毎度同じ、型にはまった内容だ。燃え盛る火災現場で、誰か大人に抱き上げられるというもの。
炎の中で恐ろしさと心細さに怯える子供の自分は、その腕に抱かれてひどく安心する。
床に降ろされる時に膨らんでいく心細さの大きさから、どれだけその大人に心を依らせていたのかがわかる。
いつも、毎度、同じ展開の夢なのだ。
ここまでブレがないと実体験なのでは、と疑ってしまうのだが、周囲の大人の言では火事にあったことなんかないのだとか。
まあきっと、状況を整理するに、恐れから作り出した脳内創作なのだろう。
なら、心理に変化があれば、内容も変わっていくのだろうか。もしかしたら、今までも少しずつ変わってきているのかも。なにせ、最近は輪にかけて記憶に自信がない。
実際、最近は目に見える改変が施されてきている。抱き上げてくれる大人の姿がはっきりするようになってきたのだ。
これまでは炎の逆光で、間近でも輪郭すらはっきりしなかった顔が。
夏の陽のような、明るい笑顔に。
抱き上げて安心をくれるのは、富士崎さんになっているのだ。
たぶん、前に泣きついて抱きしめられた時以来だから、記憶に左右されているのだろう。
それなら。
良い夢に変わった悪夢が、この身の記憶の欠落で失われてしまうのは、すごく辛いことだと思うんだ。
※
鼻を刺す焦げ臭さに、ああ火事だからなあ、なんて寝ぼけた感想をこぼすくらいに、どうやら自分は疲れ切っていたらしい。
「大丈夫か、少年」
声の正体に気が付くと、そうかこれは煙草の臭いか、などとやはり寝ぼけた確認をして、
「豊吾さん?」
どうして、と疑問が浮かぶより早く、状況を把握。
館前で遭遇した後、近くの公園に入り、ベンチで時間を潰すように会話をしていたのだ。手には、彼女に買ってもらったスポーツドリンクの缶が握られたまま。
どうやら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
それも、豊吾さんの体に寄り掛かるようにして。
「す、すいません」
「顔色悪いからなあ。なんならもうひと眠りするかい? 膝枕を貸してやるぞ?」
慌てて体を起こすこちらに、にやにやと太ももを叩いて見せてくる。
あいまいに拒否を示しながら、額に浮く汗を腕で拭う。暑さのためか悪夢のためか、きっとどちらもだろう。寄り掛かっていた豊吾さんの肩口に目をやれば、点々と染みができてしまっていて、
「気にするな気にするな。今更さ」
なんて咥えている火の付いていない煙草を揺らしながら笑うから、お言葉に甘えてしまうことにした。
※
木製の長ベンチに体を預けなおし、人の少ない公園へ目を向ける。
駆け回る数人の子供と、柴犬の散歩をするおじさんだけの、どこか寂し気な日常の光景。きっと、夕暮れなのがいけないのだ。一日の終わりが始まる色に染められてしまうと、きっとどんなものだって、寂しくて物悲しく見えてしまうから。
「いやあ、暑いねえ」
愉快そうに呟く豊吾さんの横顔だって、どこか寂し気に見えてしまうくらいだ。
手に持っているペットボトルの封を回すと、口の中を湿らせて、また公園へ視線を戻しながら、
「この間は、すいませんでした」
謝罪は、けれど先方にうまく伝わっていないようで、
「豊吾さんがコンビニに行った隙に逃げ出したでしょ」
「ああ! あれか!」
言葉を重ねたことで、納得を引き出すことができた。ついでに、ほんとにもう! という悪態と、脇腹つつきも一緒に。
「班長にめちゃくちゃ怒られたんだぞ?」
咎めるでもない笑い混じりの抗議に、こっちも表情を和らげてもう一度謝る。
それなら、この機に感謝も伝えておくべきだ。
「嬉しかったんです。館の中で抱きしめてくれたでしょう」
口にするのは少しばかり恥ずかしいことだから、この機会に勢いに任せてしまいたい。
「誰かにそんなことして貰うなんて、あんまり経験がなかったから……すごく嬉しかった」
富士崎さんにも抱きしめられて嬉しくて、誰かと一緒に居られるということが、こんなにも幸せなのかと確認できたのだ。
新しい発見と、誰かからの温もりと、知れたことの幸せを。
伝えた言葉に、
「豊吾さん?」
けれど反応がなくて、まじまじ様子を見る。
どうしてか笑いがなくなり、口が半開きに。当然、銜えていた煙草はぽろりと落ちて、どこかで見た光景だなあ、なんて記憶をなぞれば、夜中に自転車でツーリングした時と同じだと思い出す。
あの時は確か呆れていたからだから、つまり今回も、
「なんです、そんなに呆れなくてもいいじゃないですか」
少しばかり、不機嫌に唇を尖らせる。
いやいや、とにやにや笑いを戻しながら落とした煙草を拾いなおす。屈んだ体勢のまま見上げて、
「抱かれるのが、そんなに嬉しかったのかい」
「また、誤解を招きそうな言い方を……」
「はっは、そう言うなよ。そんなに喜んで貰えるなら、こっちも嬉しいってだけさ」
からかうような口振りで、口の端を持ち上げる。
「その時、なにか変なことしなかったか?」
なんだその質問、と思ったが、
「班長がうるさいんだよ。相手は未成年だ、とか訴えられるようなことしてないか、とか」
なるほど確かに口うるさそうではある、と納得。
けれどまあ、記憶の限りでは、
「抱きしめられたあと、先に帰るように言われて僕一人で帰ったじゃないですか。何も変なことなんかなかったですよ」
「そうかいそうかい。それは良かった。後から、やっぱり尻を触られた、とか言い出すのは勘弁してくれよ?」
あんまりな言葉に吹き出してしまい、しませんよ、と笑うと、心底安心したようにため息をつきながらベンチへ体を戻していく。
思えば、この人との距離感もなんだか近づいている。彼女自身が馴れ馴れしいということもあるけれど、出会った頃の嫌悪感はだいぶ薄まっていた。
好感度が上がりつつある彼女は、落とした煙草を指で遊ばせており、
「最初はさ、嫌われたほうが良いかと思っていたんだよな」
空へ目を投げながら、意外な独白を聞かせてくれた。
※
「どうせ、すぐにバイバイなんだ。それなら変に情の移ることがないように、って」
確かに、仕事が終われば、豊吾さんも巌洞さんもこの町を離れるのは当然だ。
けれど、
「けどなあ、やっぱり嫌われるのはしんどいし、嫌われたままってのも嫌でさ」
それはとても悲しいことだと、自分にもわかる。
「だから、少年が嬉しい、って言ってくれるなら、あたしも嬉しいってことだよ」
にっこりと笑う豊吾さんは、照れ隠しでもするように顔を逸らして立ち上がってしまう。だから、なんだか可愛らしく見えた表情が見間違いかどうか確認する暇もなくて、さらには、
「間に合って良かったよ」
「え?」
「まもなくバイバイだからさ」
終わりが始まるのだと告げるから、
「館の取り壊しが決定した。それが終われば、そこでサヨナラだよ」
逆光に呑まれながら振り返る彼女が、どんな顔をしているのかなんて、確かめる余裕も奪われてしまったのだ。
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